ドイツ留学日記から |
(語学研修やまちづくり学習の記録) |
ドイツへ留学しようと考えている方から、ドイツでの生活や学習に関する質問を受けた機会に、留学中につけていた日記を引っ張り出し、読み返してみました。目を通した結果、「これを読めば、日本人がドイツに対してもっている誤解を少しでも解くことができるのではないか」と感じられました。そこで、日記から、ドイツのまちづくりに関係ある部分、および今後留学する方に参考になりそうな部分をあわせ、約60日分を抜粋して掲載することにしました(その後に追加した結果、現在はほぼ100日分になっています)。「今だったらこうは書かない」と思う部分を含め、できるだけ原文のまま掲載するよう努めましたが、量的にはかなり圧縮しています。なお、人名をイニシャル化し、ドイツ語は日本語に訳し、わかりにくい部分に説明をつけ加えるなど一定の修正を行い、一部には当時の写真を示しております(留学後30年を経過した時点でスライドを電子化したので、退色がかなり進んでいます)。
「ドイツに対する誤解」は、俗に「ドイツ神話」と呼ばれているものです。それを象徴する言葉が、よく聞かれる「計画なくして開発なし」でしょうが、他にも「実際に調べてみると誤解だった」ということがあります。また、日本では、よく「ヨーロッパ」とまとめて話されることがありますが、国による差が大きいことも忘れてはなりません。実は、私が留学していた頃も、ドイツで、「現行のFプラン・Bプランは枠組みを定めるだけの消極的なプランに過ぎない。イギリスの都市計画に学び、より積極性のあるプランに変革することが必要だ。」、などと議論されていました。
ところで、ひとつ注意してほしいことがあります。それは、「ここに書いていることはかなり前の話だ」ということです。私がシュツットガルト大学の建築学科でまちづくりを中心に学んだのは、1973〜74年のことです。当時、狭軌で地上を走っていたシュツットガルトの路面電車も、その後レール幅を広げて都市鉄道と呼ばれるようになり、都心では地下に潜るなど、いろいろ変わっています。だから、この日記の内容は、ひとつの「歴史」と言えるかもしれません。
(1998.07.18/2017.06.11最終更新)
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8月1日(水)アンカレッジ経由、ドイツ・デュッセルドルフ着 |
大阪空港を出る時は心細かった、全く一人で外国へ出かけるのだから。東京で満席となり、アンカレッジ、そしてコペンハーゲン、デュッセルドルフへ。隣の人はインテリアの仕事をしている人で、よく外国へ来るらしく、いろいろ教えてもらった。
朝6時か7時頃、デュッセルドルフ到着。ユースホステルへ向かう途中、2人の日本人に会った。ユースの受付がまだなので、町へ戻って昼食。ユースでの夕食時に、中華料理店で働いているという日本人にも会った。日本のユースホステルと違い、ミーティングはないそうだ。発祥の地ドイツがこういう状況だと知らなかったので、意外に感じた(私が日本でユースホステルを利用したのは主に1960年代で、最近は日本でもミーティングは珍しくなっているようです)。
9:12の列車でホホダールへ。駅前に地図が掲示されてて、少し行くと3つの高い建物が見える。完成していたのか、実習で来てから5年もたったから当然だが。しかし、まだ池には水が入っていなかった。他にも、工事中の部分がいろいろ。ここは、全般的に、よく人間のことを考えていると言える。乳母車のための斜め石(写真の歩道に見える)、アンダーパス、地形を利用した地下駐車場、いろいろ工夫した遊び場、自然の森の残し方(遠くから見ると、森の中に建物が点在しているように見える)、敷石の色・・・。建物も、同じものはひとつもないと言っていいほど。苦心の跡が見えるメゾネットも、わずか1棟しか建っていないのは、もったいない気がする。
デュッセルドルフに戻り、駅で会った日本人と一緒に、街の写真を撮って歩く。歩行者のためにいい街で、中心に公園があるのがいい。
朝早くユースホステルを出て、駅へ。フライブルク行き54マルクの切符を買い、列車に。ボンの駅はそれほど大きくなかった。駅前広場もあるかないかの程度のもので、路面電車が道の片側に寄って走ってるところもある。駅でベートーベン生家の場所を聞くが、通じない。有名な音楽家だと説明して粘った結果、「あ、ベートホーフェンか」と言われ、びっくり。ボンガッセにあるベートーベンハウスは、博物館になっていた。実際の生家は奥の半分で、戦災にも会わず、生まれた当時のままを残している。途中にあった広場にも、ベートーベンの像があった。
ボンのユースまで1時間少し歩いて行く。ユースのまわりは自然公園になっており、遊歩道が通っている。ユースでも日本人に会った。ヘルパーが日本人だったし。シュツッツガルトの近くで1年間学び、9月に帰るという人にも会った。カナダで都市計画を学びつつある人といろいろ話し、ホホダールのことを教えた。
朝、ブラジルの人と駅まで歩く。彼はゲーテに4ヶ月いて、始めの2ヶ月は中級1を、後の2ヶ月は2をしたそうだ。大学へ行くには、2を終える必要があるとか。クラス分け試験でがんばらないと。
バーゼル行きの列車に乗ったが、風邪気味で眠い。ライン川の景色も、眠気で十分見れなかった。南に行くほど山が多くなるのかと思っていたらそうでもなく、再び平地になった。フライブルクは、かなり古い町のよう。日ざしが強いのは、今日の天気がいいからなのか、南だからなのかはわからないが、きれいな青空だ。
アメリカ人と一緒にゲーテ・インスティテュートへ行った。手続きの後、ドイツ語の試験を受けた。多分、これでクラス分けをするのだろう。中級コースに入りたかったので、緊張した。
その後、2ヶ月の間住む事となる宿舎(写真)まで歩いた。それはアイススケート場にあり、個室できれいなのが気に入った。
残念ながら基礎コース2になっていた。しかも、授業を受けてみると、基礎コース2のメンバーはぼくよりうまく話し、理解できる。多分、ドイツ語と日本語の間に、あまりにも大きな差があるからだろう。ただ、過去形で答えたら、それはまだだと現在形に直されたように、授業の内容自体は易しすぎる。
帰宅して考えたが、再び3時頃にゲーテを訪ね、基礎コース2から中級へ替えてくれるように頼んだ。いろいろ経過があったが、何とか移って良いことになった。それで、ゲーテにあるテープレコーダーの使い方を習い、1時間半ほど聞いた。
ゲーテの授業ですっかり疲れてしまった。ぼくにとって、中級は少し難しすぎるのだろう。どうなるか不安だが、これも試練と考えるしかない。授業では、1時間に1回程度あてられるが、たいてい間違うので、先生が直してくれる。この週末は、勉強しないといけない事が沢山ある。午後、ためしに基礎コース2のテープも聞いてみたが、あまり理解できなかった。
5時頃、屋根でやかましく音がして、起こされた。どうやら、雨漏りを防ぐために工事を行っているようだ。ドイツでは、こんなに朝早くから仕事を始めるのだろうか。
メンザ(学生食堂)へ行く途中、ドイツ人に、フライブルクが気に入ったかと話しかけられた。もちろん"Ja"(イエス)と答える。フライブルクの人口は約17万人で、彼によると、60万人近いシュツッツガルトは既に大きすぎるそうだ。
ゲーテの研修も4週間分を終えた。現在のぼくの課題は、ドイツ語がうまくなること。ヒアリングと、語彙の問題だ。文法も、まだよく間違える。ドイツ語がどれだけ出来るかが、ぼくのドイツでの学習・研究成果を決定するだろう。
天気がいいので、カメラをもって散歩に行く。まず、この前見つけた、Fプランが掲示されている地下道へ向かう。説明を読み、このプランについてもっと話しを聞くため、市役所の都市計画局を訪問することを決意。
昼食の後、シュロスベルクに歩いて登る。リフトもあるが、山の中腹までで、そこから上は歩くしかない点が気に入った。行き違う人は、みな散歩を楽しんでいるように見える。かつて、ここには城があったそうだ。帰る途中、クラインガルテン(家庭菜園)を通る。今日は土曜なので、作業をしている人がたくさんいた。
帰宅してエデカで買物の後、市役所の都市計画局を訪れた。玄関を入ったところにフライブルク市の模型が展示されていた。壁には、多くのプランが貼られ、部屋は非常に広い。女性職員にFプランとBプラン、およびその模型を見せてもらった。多くの市民がまちづくりを議論するためにやって来るので、いつか見に来るといいだろうと言われた。ぼくはまずドイツ語を学ばないといけない! それで、テープを聞くため、またゲーテへ向かった。
初めて、ドイツ語で書かれた新聞を買った。買ったのは「バーディッシェ新聞」で、ニュータウンに関する記事が載っていたから。新聞を読むのは楽しかったが、辞書の助けがないと読むことができない点は残念だ。
このところ、ゲーテに通学する途中で、ドイツ語で考える練習をしている。「考える」という行為に言葉が不可欠であるとすれば、知らないうちに母国語の影響を受けており、これが国民性や文化にも影響しているのかもしれない、と感じた。
今日の出席はわずか11人だけ。みんな疲れているのだろう。そのかわり、いつもより授業をよく理解できるような気がした。
<解説>
クラスの人数は当初20人強でしたが、1ヶ月を経過する頃から次第に減ってきました。忘れられないのが、一番前の席に座っていた方です。時々質問したりする活発な方でしたが、ある日の授業中に、先生に「教え方が親切でない」と注文をつけたのです。先生は発音が非常にきれいな女性で、「大学を目ざすための特別クラスなので、しなければならないことがたくさんあるから」と説明されました。しかし、その事件以来、以前よりも授業中に雑談されるようになり、私も次第に授業についていけるようになりました。私たち日本人は、大いに彼に感謝した次第です。彼は9月に入ると来なくなりましたが、残された時間の少なさに焦っていたのかもしれません。
授業内容はコース後半に入ってかなり難しくなり、9月21日には文法、およびヒアリング+要約のテストがありました。両方合格できたら大学の語学試験が免除されたのですが、私は文章を理解して表現する力が未熟で、合格できたのは文法の方だけでした。いずれにせよ、この2ヶ月は私の留学の基盤づくりで、後にドイツの法律を読むための基礎力も養成できました。
宿舎が同じだったH氏が大学に出発した。すでに出発した人がいると思うと、勉強にも集中しにくい。もうゲーテの勉強にもあきてきた、早くドイツのまちづくりの方を勉強したい。
昼食後、ミュンスター(教会)でパイプオルガンを聞く。和音がきれいでよく響き、荘厳に聞こえる。ここで聞けば、バッハの音楽でも理解できるだろう。しかし、このミュンスターの高さが116mもあるとは知らなかった。上に行くほど引っ込んでいるので、50〜60m程度だろうと思っていた。
ゲーテの授業も今日までで、夜は先生のお宅でパーティー。5時に先生の住まいを訪問したところ、UさんとMさんは日本から持ってきた和服姿で来ていた。先生はいろんな本を見せて下さったが、そのなかには非常に古い聖書もあった。先生の住まいは都心近くの古い建物の上階だが、中廊下式でとても広く、片側の3室をすべて開放して行われたパーティーは10時頃まで続いた。
ついにゲーテでの研修も終わり、次は専門の勉強だ。この8週間、よくがんばったと思う。現在の最大の問題は、あとの10ヶ月で何を学ぶかということだ。学ぶものがたくさんある気もするし、少ししかない気もする。出発時には、ドイツの都市計画、地域計画の底に流れているものを知る事を目標としていた。それは多分、ドイツ経済の特徴につながっているだろうし、それを構成している国民の意識・行動様式に関係しているだろう。留学の結論が「ドイツと日本の都市計画の差は、その経済構造の差に基づいている。ドイツでは都市計画にこれだけ金を使っている」というものになるとすれば、あまりにも能がさなすぎる。それは、我々空間を扱うものの結論ではあり得ないし、それを結論としてはいけない。例えば、スプロール関係、地価、用途地域、再開発、国土計画と連邦制、住宅供給制度、etc.
9時半の急行に間に合った。座席がいっぱいで座れなかったが、親切な女性が、通路に引き出し型の座席があることを教えてくれた。カールスルーエでは、ホームの反対側にシュツットガルト行きの列車が止まっており、乗り換えは楽だった。
お昼頃シュツットガルトに到着し、メンザへ行くと、日本人に会った。留学生事務室へ行ったが、相談できる時刻が過ぎていたので、タクシーでデガロホへ向かう。家主は穏やかな人だった。部屋もきれいで、隣の部屋にはドイツ語学を学ぶアメリカ人がいた。猫も2匹いる、とのことだった。
今日はドイツ語試験の日。3時半には目が覚めた(隣室のKはもっとひどく、ほぼ1時間毎に目が覚めたそうだ)。Kと7時半に出かける。試験場が開くまで、かなり待たされた。200人以上が試験を受けた。はじめの書き取りは、それほどむずかしくなかった。次は長文読解で、バルト海に関する文が出たが、わからないところがあった。最後の文法は内容的にはゲーテより簡単だったが、問題の形式がかなり違っていた。とにかく、やれるだけはやった。今日はすっかり疲れてしまった。
デガロホから町へ行く路面電車が、反対側の電車の事故のために15分ほど立往生。大学に着くと、すでにドイツ語試験合格者の名前が張り出されており、ぼくの名前もあった。口頭試問を受けるまでもなく合格したわけだ。
その後講義室へ行ってみたが、講義は来週からということで誰もいなかった。そこで都市計画研究所まで行って聞いたところ、建築のインフォメーションセンターへ行くのが先だと言われた。建築では授業説明会が明日あるという説明を受け、ようやく満足した。
今日は「地域・都市計画基礎」の日。10時から説明が。少しねむいのも重なり、あまり理解できず。昼からの社会住宅の見学会は、5時までかかるのでヤメ。3時からまた地域・都市計画基礎。ぼくが選んだチューターは、発音が少しぼんやりして聞き取りにくく、あまり覇気が感じられない方みたいだが、グループ作業なので、他の学生との交流に期待をする事にした。やる事が急にたくさんでき、大変だ。思うに、10ヶ月後はもう日本に帰っているのだ。ウカウカできない!
ゼミ報告を2〜3冊読んだところでは、我々の分野に関する限り、研究の蓄積・方法論では日本の方が進んでいるように思えてきた。多分、こちらは日本ほど研究の必要性がなかった、問題がそれほど大きくなかったからではないんだろうか。しかし、近年は同質の問題がおこっているようだ。住宅、過疎過密、交通・・・。何を学んで帰るべきか。基本的には、歴史と現状の認識だろう。未来へのあり方などではあまり考え方に差はないが、現状は違う。その現状をつくっている社会、とくに法律・権利関係と財源・生活水準の問題が、実現過程の事が問題になるように思える。
天気が比較的良いので、ヴァイセンホフ・ジートルングを訪ねる事にした。ヴァイセンホフはかなり古くなっており、1927年当時のままのは1/4〜1/3ほどしか残っていない。やはりコルビュジエとミースのがよい。建築の歴史というものを感じさせられた。細かい装飾は取り払われ、そのかわり建物の輪郭そのものが作り出す形、窓のプロポーションに苦心の跡が見られる。石・レンガ造から、鉄筋・鉄骨になった事により、自由な窓、ピロティ、細い柱、などが可能となった。それが見事に表現されている。50年前にこのような住宅を建てるのは、大変だったろう。今見ても、美しい。ミースの建築プロポーション、コルビュジエの細長い連続窓など、現代建築の開拓者にふさわしい、と思った。(写真正面の二戸建てと左奥の一戸建て住宅がコルビュジエの設計で、2016年に、上野の国立西洋美術館と共に世界遺産に登録された。二戸建て住宅の左半分は、2006年に美術館になっている。ミースの集合住宅は、この裏側にある。)
11月は苦しい月になりそうだ。基本的に、語学力の弱さがひびいている。来年になれば少しは楽になろうが。そのうえ、どこからドイツの都市計画へ食いついていったらいいのかよくわからない。授業に追われるのと、自分の独自の勉強とのかみあわせ、独自に何をやるかが明確でない事が頭を悩ます。11月をうまく乗り切れば、あとはかなり楽になりそうな気がするが。5年前にドイツで実習をしてなかったら、それこそ五里霧中、というとこだろう。とにかく、授業の課題はやり切らないといけない。それから、歴史を先にやるか、現状をさきにやるか、という問題がある。また、どの分野に重点を置くか。建設誘導計画(Bauleitplanung)は絶対に歴史と現状をやらないといけない。住宅の問題も無視はできない。また、地域計画も重要である。それから、ドイツ人の生活を知る事も必要だ。その中から都市計画が生まれてきたのだから。緑地が非常に重視されているようだが、これはドイツ人の生活様式と無関係ではないだろう。資料のある場所もかなりわかってきたし、とにかく努力しないといけない。
もう1ヶ月以上も日本人と会っていない。別に日本人と会わなくてもなんともないはずなんだが、ドイツ人はみな親切なんだが、メンザで母国語で楽しそうに話している留学生のグループを見るといら立ち、日本人に会いたくなる。シュツットガルト大学には、他に日本人はいないのだろうか。
5時から建設誘導計画のゼミ。大筋は理解できるのだが、細かいところはわからない。でも、かなりヒアリングも上達したと思った。今日の授業からも、いろいろ読まねばならない本を知ったが、わずか週に2時間のゼミでできる事は限られている。それ以外の時の自分の勉強が必要なのだ。ゼミはドイツ人を対象に行われるので、レベルが高い。まずそのレベルに到達するという課題と、ゼミで一緒にやるというより高度な要求とが同時に出てくる事が頭を悩ます。冬休みに、なんて思っていたが、とにかく時間のある限りやらなければならない。8時過ぎに夕食にやっとありつけた。
家主からの達しで、アラビアがヨーロッパに対し、中東戦争に関連して、石油の供給を断つ、とおどしている事を知る。それで、ぼくらも暖房を節約せねばならなくなった。今の状況で石油供給を断たれたら大変な事だ。最も早く、広く影響を受けるのは日本だろう。暖房、自動車、飛行機、電気、そして合成樹脂・繊維と、石油なしには考えられない。みな必然的に現代の生活について考えるようになるだろう、と思った。
少しこちらの建築・都市関係の法令を読みだした。こちらでも一定の用途混合が認められている事を発見。少し意外な感じだ。実際の法の運用を調べないといけない、と思った。建ぺい率、容積率などでは、日本と似ている点も認められる。ドイツは違っている、と思っていたのに、実際の差異は僅か(重要だが)しかないみたいだ。しかし、「都市」は違っている。Why?
今日はいよいよ都市基礎調査ゼミでレポートの日、はりきって行く。ところが、遅刻者の影響で始まりが遅れ、しかもレポートは後回し。そして、ようやく相棒がレポート。ところが、彼がだらだらと30分近くもしゃべたので、ぼくのは来週に回された。せっかく準備してきたのに。相棒が「あと1週間準備ができる」と言ったので、「別のことをしないといけない」と答えてやった。しかし、考えるに、彼の協力がなければ、何もできなかっただろう。もう今では要領がわかったので、一人でもできるが。
帰りに本屋により、連邦建設法の本を買った。他に、3冊ほど買いたい本を見つけた。デガロホへの帰り、車の渋滞で電車もノロノロ運転。バスで事故があったらしい。しかし、2車線から3車線の区域に入ると同時に、マイカーを尻目に、電車は専用路線をスイスイと走った。これでないといけない、と思う。
建設誘導計画のゼミの時に思ったが、ぼくの目的と他の人の目的とは、ずれているようだ。ぼくの場合、ドイツの都市・地域計画の現状を知るのがまず目的となっている。しかし、ゼミ自体は、現状を前提として、現在おこりつつある問題、今後の方向について考えるのを主眼としているようだ。だから、あまりゼミをとらず、自分でやる方がいいかもしれない。しかし、ゼミも必要だ。何がどのような脈絡で問題になっているかは一応理解できるから、自分でやる事の動機づけ。更にはドイツの現状の眼界を知らねばならない。これまでの学習からわかった重点とし、まず規制の拘束性の問題。Fプラン・Bプランの拘束力と、都市総合計画、地域計画の関連が重要。次に、プラン策定と住民参加の問題。ドイツでも住民参加は必ずしもうまくいってないみたいだ。住宅問題も、思ったよりきびしい。高度成長国はどこでもそうなのかも。とにかく、やることがたくさんある!
いよいよレポートの日。約20分ほど、原稿を読んだ。質問はなかった。多分、遠慮したんだろう。みんながぼくの報告を理解できたかどうか気になる。先生に、抜けていた点を2つ指摘された。いずれも、ぼくが調べた限りでは全然出てこなかった名前だ。
2時から、ベルリンとミュンヘンの都市総合計画に関する組織の説明。いかにして行政がプランを組織するかが大きな問題になっているようだ、あまりよく理解できなかったが。理解するには集中して聞かないといけないが、それが長く続かないのだ。
本格的学習に入ってから、ほぼ1ヶ月たった。留学の最も良い点は、頭が柔らかくなる事、つまり、いろいろな考えに接し得ることではないだろうか。25〜26歳という、まだまだ可能性が多様な時期に留学ができて、本当によかった、と思う。
今日はエスリンゲンの市役所を訪ねる日。朝早く起き、雪の道を駅へ急ぐ。行きがけ、同じ授業を受けている人と一緒になった。市役所での説明は、あっけなかった。フライブルクと比べると、展示されている地図や模型も少ない。測量局では、見せてもらった地図で、未建築地も細かく所有者が分割されているのに驚く。ひょっとして、日本以上かも。そのあと、都心部を散歩。古い家が残っていて、とてもきれい。中にはかなり傷んでいる家もあったが。西の方は、工場と、その中に住居が点在。町全体は、ネッカー川の谷にひしめいている町、という感じだ。丘の上には、お城もそびえていた。シュツットガルトまでバスで戻り、町で冬用のコートを物色して歩く。
専門の勉強はどこまで進んだのだろうか。ドイツの都市計画と、問題にされていることが、ほぼわかってきたところだろう、と思う。ドイツの都市計画はかなり日本に似ているが、細かいところではいろいろと差がある。この「差」が大切ではないだろうか、という気がしてきた。日本の都市計画を一度にガラリと変える事はできないので、ドイツとの差を知ることは、今後の方向を考えるにあたり、示唆する点が多いのではないだろうか、と思う。
ドイツでは、法定都市計画と研究者が近い関係にある。日本では、法定都市計画ではダメだと別のことを研究する(または単なる批判をする)か、それに目をつぶって理想を追う2つの傾向に分かれてしまっているのではないか、と思う。いずれも正しい態度とは言えないだろう。
シュツッツガルトの路面電車の収益が良くないのは、都市構造に起因しているように思う。一点集中型の都市であり、主要路線はすべて都心を通っている。ほぼ均一料金制のため、1人あたり乗車距離が長くなるドーナツ化に弱いし、片方向輸送になるし、だんご運転がよくある。これだけ専用路線を確保し、ワンマン化し、車両を整備しても、やはり都市構造には勝てないようだ。(写真は、都心のシュロス広場から、中央駅の方向へケーニッヒ通りを眺めたもの。その後、都心部では電車が地下化され、地上は歩行者空間になっている。)
外国で、その国の学生と一緒に勉強するという事は、ものすごくむずかしい。来年になれば、などと考えていたが、どうも無理な気がしてきた。下北の方へでも隠れていたいと言っていたTさん(ゲーテで一緒だった方)の気持ちも少しわかる。隣室のKも、授業を十分理解できないそうだ。それを聞き、少し安心した、同族を見つけて。そして、また少しやる気がでてきた。やはり、他人と話しをするという事は、いいものだ。
午前中は部屋で読書。昼から、留学生事務所によるクリスマスパーティーへ。贈り物として、書類カバンをもらった。そして、紅茶やコーヒーを飲み、菓子を食べる。全体で歌を歌ったりいろいろするのだろう、と思ってたら、そうでなく、ただ話すだけだった。ぼくは、台湾の人と筆談をした。字が意味を持っているということはいい事だ。多分、お菓子をこんなに食べたのは、ドイツに来てはじめてだ。
昼、新聞を読んでいると、高層住宅に関する記事が目にとまった。高層住宅では、高いとこに住む人ほどノイローゼが多く、自殺率、離婚率が高い。幼い子供をもつ家族は、下層にしか住みたがらない。いったい、なぜ高層住宅を建てねばならないのか、というもの。日本なら、高さ以外に、狭さも問題にしないといけないだろう。日本では地価が高く、ドイツみたいな棟間空地もいらないので、これからますます高層がふえる恐れがある。
社会住宅のゼミは、コストの問題と、子供の遊びについて。成長に重要な子供の遊びの空間は不足している。子供の遊びを分類して、その意味を考えてるところがおもしろかった。たしかに、人間社会を考えると、子供がいかにして成長するかという事は、決定的に重要な要因である。多分、自動車が子供の遊びの場を奪ったのだろう。子供の成長を考えたら、今の都市は非常にまずく出来ている。いままでBプランと、それによる開放性の高さだけを考えていたが、生活の中味と空間との関係という点も見逃せない、と思った。
シュツッツガルトのFプランへの見解を少し読んだが、どうも手法・考え方は日本とあまりかわらないような気がしてきた。ドイツの国土計画は日本より非常に良く見えるが、これはたまたまあった歴史的条件のみによる差なのではないか、と思えてきた。逆に言えば、中央集権か州制かが非常に重要なのかも知れない。州の内部、また都市に関しては、あまり大きな差はないような感じを受けた。やはり人口移動はかなりあり、過疎への取り組みもあまりうまくいってないようだ。
今日はクリスマス・イブ。Rさんから小包が来た。中は、モミの葉が添えられた手作りのケーキ。嬉しかった。書き表せないが、モミには独特な匂いがする。昼から、果物やお菓子を買おうと町へ行くと、もう店は閉まっていた。どうも1時までみたいだ。ドイツのクリスマスは家庭中心みたいだな、と思った。
ヴァイプリンゲンのG氏から、クリスマスパーティーに招かれる。車で、駅から旧都心と新住宅地を案内してもらう。旧都心は歩いた方がよく味わえそう。新しい住宅地はどこも同じような感じで、ほとんどに地下駐車場があるとのことだった。
G氏の住まいは戸建ての2階建てで、斜面のため地下も半分以上は地上にあって、そこにある住戸は貸しているそうだ。日本からもってきた箸をあげると、とても喜ばれた。クリスマスには親は子供と遊ばねばならない、とのことで、昼食まで2階で遊ぶ。ぼくも買物ごっこの仲間いり。昼食はライスと鳥の丸焼きとサラダ。こちらのご飯はパラパラしてて食べにくいので、箸はあまり使わなかった。
食後は散歩。まちづくりについて、G氏にいろいろ聞いた。住民参加はあまりうまくいっていない、みな自分の利益ばかり主張するから、との話。そして、この付近の土地は坪10万円ぐらいするそうだ。それから、ヴァイプリンゲンは工業都市的性格が強く、流出人口よりも流入人口が多い。また、近年人口は停滞している、新住宅地開発にもかかわらず。市中心部の密集した住居に住んでいる人たちが、より広い住居を求めて郊外へ行くからだそうだ。
散歩の後、鉄道模型で遊ぶ。G氏のお父さんの時のもので、なかなかうまく走ってくれなかった。そのうち、彼の兄弟が子供を連れて訪ねてきた。うち1人は建築を学びたいそう。彼から、ドイツではアビトゥア(大学入学資格試験)のあと徴兵に1年半行き、そして大学、と知る。学問にとっては惜しい1年半だ。
帰る前に、クリスマスツリーのろうそくに火をともし、歌をうたう。たくさんのろうそくで、明るい。歌はみな賛美歌的で、「聖しこの夜」なんかは出てこなかった。おかげでドイツのクリスマスを味わえた。
日記を読み返す。一番苦しかったのは8月だろう。9月は落ち着き、11月に、また苦しい時期があった、専門の勉強がドイツ語の障害で進まずに。12月には、いろんなことがわかっり、勉強の楽しみが出てきた。果たしてこれからの8ヶ月、どうなるのか。でも、もう大きな障害は一応通り過ぎたような気がする。後は比較的楽だろう。
今日は事始めの日なので、まず市の美術館へ。ドイツの19〜20世紀の絵画が集められている。楽しめた。メンザ(学生食堂)で昼食の後、本を2冊買って帰る。1冊は連邦建設法のコメンタール(法律の規定を1条ずつ詳しく解説した本)。
住宅問題・政策に関する論文を1つ読んだ。基本的に、日本と差がほとんどなく、むしろより悪い点もあるのを知り、驚いた。住宅の広さ・居住性などから考え、多くの学ぶべき点があると思っていたのに。むしろ住宅問題の批判に学ぶべき点があるような気がした。
外国を理解するには、3つのことが必要だと思う。1つはその国の言葉で、これで本や新聞・テレビを理解できる。もう1つはその国の家族と知り合うこと、そして最後は十分な滞在期間がいると思う。
新聞で、市内B地区の新住宅計画が問題になっていると知る。Fプランの住宅予定地で、企業はすでに土地を買収したのだが、市は道路・学校・幼稚園・遊び場に多額の費用がかかるので、渋っているそう。市としては、公共住宅を含んだ団地の方の開発を優先したいよう。ひょっとしたら、裁判になるかもしれないらしい。この問題も、都市総合計画に関係していよう。Fプランが空間のみの計画であるのに対し、それに財政と時間を加味したもの。現在のドイツ都市計画最大の問題といっていいだろう。今日のコロキウムも、これに関したものだった。残念ながら、理解が不十分でよく意味がつかめない。しかし、州総合計画の重要性、財政との関係などが、おぼろげながらわかってきた。おもしろいのは、授業のひとつのコロキウムに、いろんな専門の人が来て、日本の学会(いや、それ以上?)みたいな集まりになっていること。行政、研究者、学生が大学で討論できるとは、とてもいい事だ、と思った。
ドイツの都市計画は日本と違うと思っていたのに、勉強するにつれ、多くの似た点を発見し、目で見て理解したと考える危険を痛感している。でも、やはり違った点も少しづつある。今度はこの「差」をくわしく知りたい。
授業を聞いてもあまりわからないので、抜けてきた。もう1974年になり2週間もたったのに、あまり進歩がない。すこしいやになってきた。消耗感がする・・。読む本を変え、法律を少し勉強してみるかな。
連邦議会で新しい公害防止法が可決。これまでは健康に影響がなければ良かったが、今後は負担を与えてはいけないそう。もちろん、交通公害も含まれ、今後の道路・鉄道建設に一定の影響を与えそうだ。自動車メーカーなどは、基準を示してくれ、と言っているそうだ。どこも似たようなものだな。
いろんなドイツ人を知るにつれ、おもしろい点に気がついてきた。日本人とドイツ人は全く違った顔をもっており、顔を見ればすぐ差がわかる。しかし、その差をこえて、「あのドイツ人は、日本の誰々に似ている」という関係があることだ。例えば、H氏はM先生に、社会住宅のゼミのある人はN氏に、といった具合だ。そして、顔が似ている人は、性格、考え方まで似ているみたいだ。M先生の良心的なところ、N氏の少し頑固で自分の主張を変えないところ、など。「顔」というのは、人間にとり、非常に大切なんだな。
日本に帰ってからしたい研究がたくさんできた。特別用途地区の問題、工住混合地帯、公害・・・と。すべて、仮説をもった、調査主義でない調査だ。思うに、調査主義は、将来への展望、着実な改革の方向の見通しのなさから出てくるのではないだろうか。そして、海外の事情を知る事は、展望を発展さす非常によいスタートとなる。
1月も今日まで。遂に(やっと?)ドイツに来てから半年が過ぎ去った。1月は、長い月だったような気がする。周期的に日本へ帰りたくなり、勉強がはかどらない日や、疲れを感じる日もあった。例年よりも暖かく、その点では助かったが、もう来てほしくない、苦しい月だった。
勉強の方では、建築利用令を読んだ事が一番頭に残っている。日本の用途地域制との関係で、非常にためになった。しかし、こちらの授業では建築利用令はほとんど問題とならない。より重要な課題があるからだろう。ドイツの現状を知るだけではだめで、その問題点を構造的に調べることが望ましいだろう。日本の都市計画をドイツのように改革したら、ドイツが今かかえている問題点を背負う事になるのだから。
とても良い時期にドイツへ留学した、と思った。きっとこれから連邦建設法改正案に対する論議が成されるだろう、と思うので。かなり思いきった条項も含まれている。これらが都市計画にどのような影響を及ぼすか、興味深い。
昼食後、久しぶりに森を訪れる。散歩だけのつもりだったが、トリムコースで運動している人がかなりいたので、ぼくもする。この森は、連邦・州有の部分と、市有の部分から成っており、常緑樹、落葉樹などを混ぜているそう。その方が、害虫や雪などに対して強いからだそうだ。残念なのは、ところどころ、木にラクガキがされていること。外は意外と寒く、とくに手が冷えたが、気分転換にもなり、良かった。これからも、しばしば訪れるるようにしよう。今日は昼寝もしたし、日曜日らしい日だった。
ハンブルクの郊外の新住宅地で、住宅工事現場の占拠があったそう。ある住宅組合の建物に越してきた人たちが、8階建ての建物に反対して行ったそうだが、組合の図面には、自分の建設用地だけを赤で、まわりを緑で塗っていたので、緑のところは緑地が公的用地と思って越してきたところ、実はBプランで9階建てまで建ててよいことになっていたというもの。誰もBプランを確かめようとしなかったそう。建築主が、工事現場の概要の掲示を遅らせたのも今回の行動の原因とか。幼稚園などの施設が不足しており、そういう建物かと思っていた人もいたそうだ。
ある衛星都市(人口7万、職場4万人分)の建設をめぐり、連邦とハンブルクの間で対立がおこっているそう。連邦が集積の拡大につながると反対すれば、ハンブルクはドイツ北部から南への人口の流出を止める働きがあるから Raumordnung(地域計画の考え方)に沿っている、と反論。ハンブルクは中心部の住民の移住が主だと言っているが、連邦は結局は周辺の農村地域からの人口を吸収するのが主になる、と考えているようだ。ぼくには、連邦の言い分が正しいように思える。
きのう、ヨーロッパ各地の都市計画の模範例が10ほど載っている本を買った。さっそくフランスの例を1つ読んだ。この本、あまり辞書をひく必要がない。昨年の10月に比べると、ぼくのドイツ語もかなり伸びたと思った。
今日は、ほぼ、ぼくのヨーロッパ滞在の中間点にあたるのではないだろうか。旅行もあることを考えると、いままでシュツットガルトで勉強した期間ほどしか残っていないことになる。1年の留学は長いようで短い。重点をはっきりさせねばならない。法定都市計画や住宅などなど、とてもすべてを満足にはできない。何をどの程度やるかを、そろそろ考えないといけないようだ。
今日はいろんなことがあった。まず、ストかもしれぬとビクビクして停留所へ。2人待っていたのでぼくも待ったが、しばらくして通行人に「今日はストだ」と言われた。それで歩く。数百メートル行ったところでヒッチハイクを試みると、ものの10秒もたたないうちに女の人が止まってくれた。けさストの事を知った、と言っていた。
都市計画関連法の集中講義(連続で2日間)は、場所が土地整理局から測量局に変わっていた。先生はなかなかいい感じの人で、理解しやすい話し方をしてくれた。午後は「地域・都市計画基礎」の発表会と重なっており、発表会へ行く。しかし、各グループの作品はよく見ると違うが、基本的には似たりよったり。それで、再び集中講義を聞きに行く。同じグループの人も、その方がいいと同意してくれた。講義が終わり、5時に再び発表会場に来てみると、最後のグループが終わる直前だった。現在の建物は維持し、その上空に新しい町を建設する構想で、なかなかいいアイデア。たしか、コルビュジェがパリにこのような提案を行ったように思う。
帰りは、ボップソを過ぎたところからヒッチハイク。こんどは4〜5分かかった。乗せてくれたのは市の郊外の人で、鉄道と郵便は戦後初のストだ、と話してくれた。
今日もスト。再びヒッチで行く。都市基礎調査のゼミはさぼり、きのうの続きで都市計画法の方へ。昼休みに、フライブルクの市役所で説明してくれた人に会った。2ヶ月間、内務省に来ているのだそうだ。彼に2・3質問をした。Bプランの実際、住民から出される意見の実状なども知ることができ、よかった。Bプラン区域は意外と狭く、5〜10ha程度のようだ。
バスツアーでパリへ向かい、オスマンによる改造でバロックの幾何学的要素をちりばめた都市の姿を眺める。発祥の地シテ島や、ユトリロの絵画を思わせるモンマルトルも歩いた。ブローニュの森を抜けて訪問したベルサイユ宮殿は少しゴテゴテしていたが、小トリアノンの庭にあるマリー・アントワネットのために建てられた農家は木の素材を生かしており、日本の茶室を思い出した。もちろん、有名なモナ・リザがあるルーブル美術館も訪れたが、印象派美術館にあったモネの絵の方が気に入った。
やっとオペラ・マダムバタフライの切符を手に入れた。オペラ自体は良かったのだろうが、日本がゆがめられていた。少しはそうだと予想はしていたが、こんなにひどいとは。日本と中国とヨーロッパのチャンポンだ。まず、マダムバタフライの住居が、農家風わら葺きであること。次に、靴のまま家に上がっていたし、玄関が全くなく、常に縁側から出入りしていた。それから、服がいけない。帯がだらりの舞子調か、変なたて長の結び方。着物で、ふち飾りのついたのがあったこと。全体的にだぶだぶと着ており、ドレスみたいな感じになっていたこと。マダムバタフライの服に、ネグリジェみたいなのがあったこと。結婚式の神主が裃を来ていたこと。中国服みたいなのもあったし、手を中国人みたいにあわせてる人、中国風のカサをかぶっている人がいたことなど。マダムバタフライが床の間に花瓶を置く時、縁に足(土足か!)をかけるところもあった。ぼくには、マダムバタフライの悲しさがひとつも伝わって来なかった。みな拍手したが、ぼくはとてもそんな気にはなれなかった。
計画への住民参加を考えるとき、Fプラン−Bプランというドイツの計画システムには問題があるような気がする。大都市のFプランは大きすぎ、Bプランは10haほどで小さすぎるような気がする。たとえばデガロホくらいの広さで考えるのが一番やりやすいような感じを受けるが。シュツッツガルト全体に対しては、なかなか意見が出にくいし、10haほどのBプランでは創造性に限度があろう。代替案が出されても、あまり事情は変わらないような気がする。
3月13日(水)ハイデルベルクからフランクフルトへ |
6時に起き、旅行の準備。駅で割引切符が買えないかどうか聞く。フランクフルトまでなら半額にできると言われ、そうする。時間がかかり、乗れると思っていた列車に乗れず。
小雨の中を、ハイデルベルクへと向かう。途中、いくつか途中下車してみたい感じの駅があった。田園風景はきれいだ。ハイデルベルクでは、まずハイリゲンベルクへ登る。哲学の道へ上る道、両側が石垣になっていて、よかった。対岸の町がよく見える。山を下り、ネッカーを渡って城へ。たくさん日本人がおり、地下には大きなワイン樽があった。旧市街は道が狭く、そこに車が入り込んでいる点は良くない。きのう読んだ本によると、以前は旧市街近くまで来ていた駅を少し離れた位置に移し、鉄道跡を公共施設、公園、ショッピング街などにしたそうだが、それらしい所があった。
フランクフルトでは、また少し東京を思い出す。中心は建物ばかりで、その中に高いビルがどんどん建てられつつ。大都市はどのもいっしょか。町のネオンも、シュツットガルトなどに比べ、はるかに華やか。保存は、教会などの有名建築物の点の保存しか考えられていないようだ。ドイツにも、いろんな都市があるようだ。
朝、まず市役所を訪ね、ヴェストエンドのことを聞く。ヴェストエンドは以前の高級住宅地で、画地が大きく、ブローカーが入りこんで買いあさっているそう。Fプランができ、Bプラン作成中で、道路沿いしか商業地区を予定していないのに、中の方まで買われているとか。
ヴェストエンドはたしかに都心に近く、いい住宅地だ。建物の間にはかなり緑も多い。事務所地区化に反対する気持ちがわかる。再開発批判の落書きや、住宅占拠者が警察と闘った(?)痕跡が生々しい建物があった(写真参照)。その間に、容積率 500%程度の20〜30階の近代的事務所が建つ。いままでの都心にはまだ5〜7階の事務所が多いので、数年後にはヴェストエンドはドイツ一の高層ビル地区になるかも。なお、市中心の川沿いの住居地区は、都心の荒廃を防ぐため。郊外の方にオフィス地区もつくられており、都心にあった会社が拡張の余地を求めて移り、あとにはより小さな会社が入る例が多いそうだ。郊外のベッドタウン化防止にも意味があろう。それなら、ヴェストエンドのオフィス化は必要ないような気もするが。
その後、地下鉄でノルトヴェストシュタットへ。センターは下から地下鉄、駐車場、そして3層にわたり店。ほとんどの業種がそろっている。他に市民センター、図書館、青少年ハウス、郵便局、学校なども。まわりとは歩道橋でつながれ、たしかによくてきている。周辺の住宅は、よく見ると、子供の遊び場を中心にグループとしてつくられている。しかし、ボール遊びはダメで、時間も少し制限。多分、遊び場を中心に地縁的集団をつくることを意図したのだろう。せいぜい小学校低学年までしか遊べないような「つくりすぎた」感じの遊び場には、限界が感じられる。囲いのある冒険遊び場もあった。今は閉められていて、これも15歳まで。これにも限界を感じる。駐車場が不足してるようで、道路の青空駐車もかなりある。地下駐車場の上が遊び場になっているものも多い。
ユースを出、まず市役所へ。ヴェストエンドとノルトヴェストシュタットの資料をもらった。市は、ヴェストエンドの事務所化(日本流に言うと「地上げ」)を止めたいと考えているらしい。
ゲーテの生家へ一番のり。当時は木組みの見える木骨建築だったよう。ゲーテが生まれたのは3階の一室。とにかくゲーテの家は富裕だった、シャンデリアや鏡まである。隣の建物がゲーテ博物館になっていて、絵などが展示されている。これらがゲーテとどのような関係か聞いたら、ゲーテの友人、ゲーテの見たもの、などを集めているそうだ。その後、レーマー(14世紀の市庁舎)でカイザー広間などを見る。ドームでの戴冠式(神聖ローマ帝国の皇帝)のあと、ここで祝宴を開いたそうだ。
列車でケルンへ向かう。ビンゲンを過ぎてから、両岸にお城が見える。左岸の方が多いみたい。なぜここにこんなに多いんだろう。ザンクト・ゴアの手前に2つトンネルがあり、ローレライらしき岩も見えた。
ケルンでは、ドームを見る。駅とドームの連絡が良くなっていた、歩行者用に。川を渡り、ユースへ。近代的できれいなユースだ。対岸を眺めると、ぎっしり建物がつまっている感じ。次第に新しい建物が割り込みつつある。でも、フランクフルトに比べると、まだまだの感じがする。
ユースの台所で、日本人の女の人が働いていた。日本人も4人ほど泊まるよう。オーストラリアの人が、ヨーロッパはどこへ行っても日本人が多いと言っていた。
8時過ぎにユースを出て、まずホーエ通りとシルダーガッセの商店街を見る。歩行者空間で、かなりの人出だ。カルシュタット(デパート)には、子どもを預かる場所があった。2時間までとか。しかし、買物通りの裏はひどいものだ、ところ構わず車が止められている。きれいな建物も、車に囲まれると殺伐とした感じ。2本の買物通りのために、他が犠牲にされている感じだ。シルダーガッセの下を道路が地下で通っているところがあった。歩いている人はそんなことに気づかないようにできており、その限りではいい。少し北にも、道路の上に堂々と建つ建物が。また、地下鉄は、シュツットガルトと同じく、路面電車が地下に潜ったもので、都心に専用軌道を得るためと考えられる。京都も、ケルンと姉妹都市なら、少し見習ってほしい。(写真:シルダーガッセの下を、南北通りが地下に潜って通る。その後、この部分にも蓋がかけられ、ガラスをふんだんに使用した衣料デパートのP&Cが建設されたので、この光景を見ることはできないが、右側の教会、教会脇を走って下る斜路、そして道路上に建つ正面の白っぽいビルに、当時の面影を見ることができる。)
列車でデュッセルドルフへ。Rさんが迎えに来てくれた。少し町をドライブしてから、ヴィリッヒへ向かう。
オーバーハウゼンとドルステンで列車を乗り換え、新都市ヴルフェンへ。ルール地方は本当に「一緒に成長した」という感じで、所々にある緑地を除き、住宅・工場がひしめきあっている。ボタ山もあり、植林はしているが、まだ木が小さく、ボタ山がまとまっていないため、利用はまだまだだ。工場と住宅は一応分離されているが、かなり近いものも多く、公害があると考えられる。
ヴルフェン駅で出会った方に、団地まで案内してもらった。仕事は内装などで、外国人労働者を使うのが大変だとか、プレハブ建築はダメで30年ももたないだろう、との話。彼の住まいは中層集合住宅のメゾネット。社会住宅、92平方メートルで、家賃は三百数十マルク。それに、ガス・水道や、遊び場の費用がくるそう。メゾネットでない家も見せてもらったが、設計が悪いとこぼしていた。少し狭くても、これよりいい家ができるはず、と言っていた。
団地の全体はうまくできている。建物の色と形が変化に富み、遊び場のスケールも大きく、ノルトヴェストシュタットに比べ、より高学年まで遊べる。十分ではないかも知れないが、自然の木を残す工夫をしているし。他の団地に比べると、ずっといい。
もともと留学先として希望していた都市計画の先進地「イギリス」へ船で渡り、各地のまちづくりを見学した。まずK君が留学中のマンチェスターを訪れ、そこを拠点にイギリス中部の都市を巡った。3月末からはロンドンを拠点に、都心再開発や周囲のニュータウンを見て回った。書店で本も購入するなど、とても有益な旅行になった。
ドイツ各都市の都市計画の本を読んでいると、みな似たりよったり。町が発生し、人口増により拡張を繰り返す。戦争で人口が減るが、戦後回復し、郊外に団地が発達、都心地区の拡張も必要になる。モータリゼーションも急速に進む。そして、現在は都市部の人口は頭うちで、都市圏が拡大、というもの。日本だって似たようなものだ。ドイツへ何を学びに来たのだろうか。
イギリスで"Skeffington Report"を買ってきて良かった。イギリスの住民参加は、ドイツより進んでいるみたいだ。イギリス、ドイツ、日本を比べると、おもしろい。
Bahrdtの『人間的な都市計画』はためになる本だ。社会学者が書いたものだが、物的な都市計画への橋渡し的な役割も満足させている。都市機能の混合・純化など、いろんな点で多くのことを知る。もし機会があれば、この本を日本語に訳して出版したいものだと思う。その価値はある。
再びW氏のゼミをとる事にした。比較的、ぼくの意図に合っているよう。でも、彼の説明を聞きながら考えたが、ドイツにも、日本の「講義」にあたるものがあっても良さそうに思う。入門のあと、すぐゼミだ。学生の自学自習が基本になっているが、みんな本当によくやっているかどうか、わからない。ゼミの討論で表面的な議論しか成されないのも、このためではないだろうか。ごく一般的知識の次に、非常に専門的なのが来て、途中が抜けているような感じもする。これは、都市計画が新しい分野だからかも知れない。新しい部門の教育システムをどうするかは、ドイツだけでなく、日本でも大きな問題。将来は、建築と切り離すべきかも。
イギリスで買ってきた"Homes, Towns & Traffic"、語彙不足のため、時間がかかって仕方がないが、いい本だ。都市計画の発展が良くわかる。こんな授業を日本で受けたかった、と思った。この本に比べると、『人間的な都市計画』も色あせてくる。Bahrdtの志向は、基本的に混合のみにあった、社会階層、年齢、機能(部分的だが)などの。その目的は、活気を取り戻すことにある。都市問題の一部しか捕らえてないような気がする。住宅問題への言及もあったが、付け足し的で、住宅、土地、交通などの重要な問題が捨象されている。彼の提案にも、現実への妥協が読み取れるような気がしてきた。
夏学期は、4本の柱に基づき勉強を進めたい。第1は、もちろん建設誘導計画を中心とした、法定都市計画に関する事で、ゼミと自分の独学で。第2は、都市計画の基礎として重要な、住宅の問題。これはゼミ中心。第3は、再開発に関することで、その手続き、財政、社会計画など。第4は、ドイツで実際に行われている各種の計画を調べること。ハンブルクなどは重要だ。
社会住宅のことで、先生に文献を紹介してもらえることになった。ゼミに出るより、この方が良く勉強できる。
毎日、本と向かいあってるばかりで、疲れてきたよう。遊びに行くか、友達と話すかしたい、という欲求が頭をもたげてきた。数日前から、午前中は都市計画研究所の図書室、午後は中央図書館(写真左の建物)、という生活なので。日本から送ってきた写真を眺めて、早く8月が来ないかな、などとも考えた。
フランクフルトのストラクチャプラン、3つの案を比較している。これが「地獄絵、極楽絵」にあたるのだろう。ブキャナンの環境ユニットを適用して、都心近くの住宅地を保持するというのも、よい考えだ。そうしないと、いずれは全面再開発という事になろう。大学院の時にやったKとM地区のプランは、根本的に間違っていた、と思う。現状をいかにして改良するかの、もっと細かい計画が望まれるのではないだろうか。また、住宅地の環境をまもるには、用途規制のみでは不十分で、交通・公共施設などを含んだ計画が必要だ。
ドイツの再開発もなかなかおもしろそうだ。Bプランの経験の上に立ち、その実施に一般より強い手段を用いるもののようで、面の再開発も可能である。日本の点の再開発では、これからの都市には不十分だ。
ドイツと日本の再開発はかなり違うみたいだ。日本の場合は、道路・広場建設のためか、商店街再開発が中心だが、ドイツでは都心一般が問題となっているみたいだ。そして、停滞気味の旧商店街は、再開発でなく、歩行者街化を中心戦略としている。日本にも住宅地区改良はあるが、木造なので、この点でもドイツとかなり違う。しかし、もちろん似た点も多く、今後、差が少なくなる事も考えられる。
カールスルーエの再開発の説明を読んでいると、日本の都市改造区画整理に少し似た点があるのに気づいた。ドイツの場合はBプランがあるので、あとに建つ建物についてかなりコントロールが可能だ(限界はあるが)。しかし、日本の場合は道路をつくるだけなので、形成される新市街地が必ずしも望みどおりいかず、すぐ不十分な点が出てくるのではないだろうか、例えば歩行者と車の動線、建物の用途などで。日本の場合、Bプランに近いものとして特定街区、総合設計、建築協定などがあるが、これらと組み合わせ、更に規制を工夫して、将来ともに能率性のある市街地を形成さす必要がある。
3ヶ月後にはすでに日本に帰っているんだと考えると、ほっとしてくる。他方、残り少ない留学期間を考えると、あせってくる。泣いても笑っても、もう少しの期間なのだ!
朝5時半に起きた。バスでは流行歌を聞きながら、アウトバーンを走る。まず郊外団地を見学し、昼は都心。この都心、バロック的で碁盤の目の道路。歩行者空間も考えられている。
マンハイム市役所で、策定中のFプランの説明。発展軸は、何となく簡単だったからできたそう。最大限を決めるというFプランが批判され、2段階に開発を分けて考えてた。また、計画は政治家が決めるので、計画局は資料の提供だ、と話されたが、日本の、議会を通らない手法は、変な政治に左右されない点はよい。しかし、利益団体に知らず知らずに影響されており、むしろ政治的妥協より悪いケースもあるのではないだろうか、という気がした。
昼からヴァイプリンゲンへ。ここでは、駅前広場と駅舎改築が問題となっているそう。連邦鉄道には金がなく、市の補助をあてにしているとか。駅前通りは前庭がある邸宅地区だったのを、道路を広げ、次第に第三次産業地区へと変わりつつある。4階建て平屋根建物へのBプランがあるが、その実現のテンポは建物所有者に依存し、のろのろだそう。市役所前では、すでに再開発が始まっていた。果たして旧都心の保存に成功するかどうかは、疑問。
最後にカルバーヘーエ(郊外の高層住宅団地)へ。コンペ → Bプラン → 建設業者の実施設計 → コンペグループのチェック → 建設、の過程をとったそう。6〜7社の建設業者が入っている。Bプランがかなり建築の自由度を狭めている感じで、たとえば階数は最高限として決められたが、上限まで利用されたそうだ。建築限界線も、余裕があまりないみたい。Bプランと建設業者の関係は重要で、いいBプランをつくっても、現実にどうなるかはこの関係にかかっている。
このごろ、何となく「都市計画」なるものがわかってきたような感じがする。まだ説明できるまでにはなっていないが、今まで考えていたより、もっと重要で、複雑なもののようである。帰ってからやりたい事が山ほどある、どこまでできるかは知らないが。
ハンブルクでは、Bプラン決定を必要な範囲に限ったオープンシステムのプランづくりが考えられているとか。基本になる道路などは決めるが、建築主・利用の変化の予測できない建物への指定は必要範囲に止めよう、というもの。それでいいと思う。望ましい環境保持にはどこまで必要か、が問題である。ヴァイプリンゲンのK地区などは、少しいきすぎかもしれない。
2月と同じD先生の建設・都市計画法の集中講義、なかなか良かった。これから残された期間は、法律を中心に勉強しよう。このところ、勉強のスピードも速くなった。住宅のゼミでも、2つほど質問した。近年のドイツ住宅問題の流れを話してもらえた。
D先生の講義は、質問に妨げられ、計画どおり進まず。一人、勝手にいろんなケースを考え、何回も質問をする人がいたため。授業中に質問するというのは、少人数教育の成果なのかもしれないが。日本では、授業の後にするのが普通のように思う。
都市計画局を訪ねる。Bプランの縦覧が4つほど。建築線が用いられるのは例外的みたいで、ぼくの見たのはすべて建築限界線だけだった。とするなら、Bプランの意味はどこにあるのか。建物を建てられる場所をあらかじめ決め、開放性を保証する、という事なんだろうか。それに、時々(?)ガレージや通行権、植樹の義務づけ等がついてくるという事か。重要なのは、建物を建てられる範囲だろう、ここが基本的に日本と違う。もちろん、建ぺい率、容積率の値の差も重要だが。なお、道路騒音があるので一般住居地区に、という理由説明のあるBプランがあった。
帰国を2ヶ月後に控え、飛行機の費用を払い込む。そのあと旅行代理店を訪ねて、イタリア旅行の申し込みをした。これで今後の日程がたった。明日はストラスブールでO君の結婚式。いろいろ迷ったが、行く事に。でも、背広を着ていかないといけないのかな・・・。
ドイツの外部区域の規制、日本の市街化調整区域に意外と似ているのにおどろく。抜け道まで似ているみたい。しかし、実際の郊外の形態は違う。原因とし、水田と畑の差、地区整備負担金の有無、伝統的居住形態(日本ではスプロールが一般化してる)、村落密度の差、レクリェーション習慣などが考えられる。
今日は予想以上に勉強が進んだ。家で読んでいる『社会的土地所有権を目ざして』もおもしろい。それによると、ドイツのBプランはアメリカの敷地分割規制に相当するとか。ドイツでBプランが発達したのは、都市での4〜6階建ての集合住宅による生活が一般化していたからではないだろうか。イギリス・アメリカ・日本などとは全く違う。近年の日本のマンションの問題は、低層住宅に沿って形成された規制の限界を示している、と言えよう。
昼すぎ、都市計画局を訪ねると、W地区の新開発地の模型とBプランがあった。緑との調和を中心に計画したよう。通行権、植樹などの指定が、かなり使われてる。例外とし、建築線からの5mまでの後退、建築限界線の3mまでのはみ出しなどが。階数も、特定の値を指定し、例外的に3階までのオーバーを認めるという方式。建物の間に、子供の遊び場の用地も考えており、地下にガレージを造ったら容積率のボーナスがプラス10%。かなり誘導性の強いプランだ。なお、地区整備の費用の半分強が市の負担になるとか。負担金をとれない幹線のためなどだろう。その上、学校などの費用が来るわけ。工業系のBプランも見たが、建築限界線がほぼ敷地いっぱいに引かれていた(つまり、敷地をどこでも自由に使用できる)。
連邦建設法の改正案を読んでいると、建築主の個々の建物の計画へのBプランの規制・介入という側面が強化されようとしているのがわかる。都市計画と、個々の建物の関係は、高密化と技術の進歩により、ますます密接になりつつある。Bプランは、個々の建物の事前概要設計的意味をもち、建物と都市計画との関係に応じ、その厳格度を変える、と考えていいのではないだろうか。社会的制約の帰結、と理解できる。
<解説>
W氏のゼミで、「議会に連邦建設法の改正案が提出された。学生用に印刷したので、買って読むように」と言われ、64ページある議会資料を紙代程度(たしか3マルク)で入手しました。読んでみると、比較的わかりやすいドイツ語で、現行制度の限界と改正案の考え方がていねいに説明されていて、とても勉強になりました。なお、この改正では紆余曲折があり、改正の柱のうちの1本を断念して手を加えることで、ようやく1976年に成立に漕ぎつけています。
一方、日本を振り返ると、まちづくりのルールを定める「都市計画法」は、1967〜68年の国会審議で大幅に改正され、現在の形(俗に「新都市計画法」と呼ばれていた)になりました。当時、私は大学生でしたが、授業で制度改正の話しを聞いた覚えはありません。つまりドイツでは、大学と行政との距離が、日本よりもはるかに近いわけです。
H地区へBプランと実際との関係を見に。なるほど、Bプランのようになってる。ここでは、Bプランは、建物間の空地確保、という意味が大きいと思う。1階の店舗が計画されてたとこ、すでに半分ほど開業してた。H地区のまわりは景域保全地域だが菜園が進出しつつあり、一般のレクリェーションは次第に脅かされている、と思った。景域保全の限界だろうか。日本の方が農地法があるので、この点ではいいかも。
採光のための棟間や窓前空地の規定から考えると、Bプランはなくてもあまり住棟の開放性は変わらないように思える。Bプランは、都市形態と、開放性への違反を防止する意味をもっているのか。また、相隣苦情がドイツで進んでいるのには、曲がりなりにもBプラン作成時の住民参加があるからかも。行政が勝手に決め、自由に変えられる集団規制では、相隣関係の根拠とはとてもなれないだろう。
明日からイタリア旅行で、勉強の方も少しにぶる。朝4時に起きられるかな。
古代都市の面影が色濃く残るローマと、ルネサンスの中心地フィレンツェを、バスツアーで訪問した。ローマは、町の至る所にオベリスク等の重要施設がある。地下鉄で訪問した新都心Eur(エウローパ)では、「ここがあるから古都を保全できるわけか」と感じられた。フィレンツェからドイツへの帰路にミラノにも寄り、リヒテンシュタインという小さい国も通過した。「百聞は一見に如かず」を実感した、意義ある旅行だった。
風邪が悪くならないよう、家にとじこもる。おかげで『都市再開発の実際』を読み終えた。留学最後の本だった。あとは、雑誌をもう少し調べたい。但し、体が元気になったら、の話。
朝起きると、比較的体の調子がいい。10時半頃から、旅行に出発する準備。駅でユーレイルパスを買った後、都市計画局で建築行政局の場所を聞いて、訪れる。あまりうまく質問できなかったが、何とか目的は達した。建築申請時に他の行政部門も関与すること、州建築法自体が公害に関するいくつかの重要な規定を含んでいること、を知った。州建築法をもっと勉強すべきだったな。ここ1週間、風邪でかなりの時間を失ったが、もしこれを有効に使えていれば・・・
7月31日(水)〜8月5日(月)スイス・オーストリア訪問 |
チューリッヒ、インターラーケン、ベルン、ウィーン、ザルツブルク、インスブルックを、K君と一緒に駆け足で回る。ドイツ語圏なので、言葉には苦労しなかった。
ウィーンに向かう夜行列車の車中で、地図にウィーンのニュータウンを意味する「ヴィーナー・ノイシュタット」という町があるのに気づいた。隣の人に聞くと、「30〜40年前に計画された」と説明を受けたので、列車を乗り換えて向かった。着いてみると「750年前のニュータウン」とわかり、オーストリアの歴史を感じさせられた。
昨夜はユースで働いている人とビールを飲みにいき、いろいろ話し、おもしろかった。ドイツのユースで働いてるのは、徴兵忌避のドイツ人か外人だ、その中で日本人は文句を言わず責任感が強いので好まれてること、ミュンヘンで6人も働いていたが、外国人労働者除外のためやめさせられたが、かといってドイツ人を雇えず、再び外人を雇ってること、週60時間労働で、外人に労働基準法はないこと、などを知る。ドイツもいろいろ問題のある国のよう。そして、ドイツ人は必要以上に鍵を使い、他人の事に責任をとらない、などの特徴があるとか。日本人はいい民族なのかもしれない。
郊外団地ペルラハのインフォメーションセンターを訪れると、K君が英語の資料をもらってるとこ。ぼくはドイツ語のをもらう。ここの女の人、とても勘が良く、知りたい事をすぐ説明してくれ、楽しかった。日本人訪問者もいるよう。ノイエハイマートが非法定の区画整理をやり、その後市や他のデベロッパーへ土地を売るのを義務づけられてること、ミュンヘンも金がなく、センター建設がうまくいかないこと、地下鉄建設時の土で丘をつくってること、でも地下鉄完成にはまだ時間がかかること、公共住宅、マンションが混ぜられてるが、ちがうのは壁ぐらいのこと、色彩コントロールや、歩道の形態の統一を図ってること、多くの建設会社が入っているのは、仕事を与える意味のあること、駐車場の3分の2が地下にあること、ほとんどの芝生に入っていいこと(写真参照)、などを知る。
バスでロマンチック街道を通る。バスには日本人も7〜8人。アウグスブルクからロマンチック街道に入る。古い町がずっと連なっているという感じだ。まずネルトリンゲン。中心に教会があり、カラフルな建物が続いている。城壁はずっと歩けるようになっており、2kmほど歩いた。次なる町はディンケルスビュール。外から見ても古さがわかり、ハーフティンバー(木骨構造)の建物もある。建物が少しずつずれて建っているとこもあった。城壁外に公園化されている部分もあり、あまり町は大きくなっていない。城壁の外に、小規模だがショッピングセンターがあった。(写真:城壁から町の中心にある教会を眺める)。
そしてローテンブルク。ここは1時間半ほど歩きまわる。市庁舎の塔にのぼって眺めると、町全体が見わたせる。以前の城壁から町があまり拡張してない、ということがわかる。赤いウロコ状瓦が魅力的。川の方を見ると、城壁外は公園化されている。反対側は城壁外にも少し家があり、近代的工場も1つ見える。駐車場は基本的に城壁外だが、中にも1ヶ所あり、バスもそこに止まった。1つ1つの建物が他のドイツの町にある旧市街に比べてとくにいいというわけではないが、以前の町全体がわかるという点でとても魅力的。また、町は全て敷石で、少し歩きにくいぐらい。色、広告などでドイツ一規制の厳しいという点が推察できる。
(日記には書いてないが、バスで配られたロマンチック街道のパンフレットが、ドイツ語、英語、そして日本語の3種類だったことは鮮明に覚えている。観光地のユースホステルでは日本人によく会い、ドイツを旅行する日本人が多いのには驚いたが、なかでもロマンチック街道は日本人好みの場所のようだ。)
今日は交通機関を乗り継いだ、という感じ。ヴュルツブルクからビンゲンへ行き、そこからライン下りをボッパルトまで。船からは、列車からと違い、ゆっくりと眺められる。ライン川沿いはブドウ畑か林、岩で、その間に点々と城がある。ローレライは、大したことは無かった。ローレライの岩にはドイツ国旗がはためき、上に展望台があるようで、興ざめ。やはり自然美は日本がまさる。日本人にとり、ライン下りは城見物の意味が大きいのでは。見る方向で城の姿がこんなに変わるとは、思っていなかった。川沿いの集落にも、ハーフティンバーの建物がぽつぽつ見え、いい感じのがあった。
ボッパルトで3回道を聞いたが、いずれも「ここの者ではない」ということで目的を達せず。ボッパルトや昨日のローテンブルクでは、ドイツ人旅行者もかなり多いようだ。ボッパルトから列車でカッセルへ向かう。コブレンツからは、小さい川沿いを走る。水草や、川沿いの緑が、自然に近い形で残っている。ボートやカヌーに乗っている人もいた。フランクフルトとカッセルの近くでは、セイタカアワダチソウを見つけた、あまり見苦しくはなかったが。
ハノーファーは、あちこちで工事していた。駅前通りでは地下街を造っており、中心をカットし、外気に直接面する地下空間を目ざしているよう。道路に自動車を走らせないことで可能となったわけで、日本も見習うべきだ。市役所に、市の発展を示す模型があった。中世の壁があった頃、1939年の戦前の状況、戦後の破壊された町、そして将来のハノーファー。1939年のを見ると、建物の背後にもぎっしりと建物が詰まっている。それが戦争で破壊され、復興にあたり、まず広く道路・広場を計画し、このためかなりの建物を整理し、さらに大きくまとめて建築し、背後の建物をなくした、ということがよくわかる。都心で延べ面積が戦前の6割になったというのも、本当だろう。市役所は、そばの池の水を抜いたりしたおかげで、ほとんど破壊されなかったとか。とても立派な建物で、もし壊されていたら、全面的な再建は望めなかったかもしれない。
ビーレフェルトでは、ユースに来るまで、いろんな人に道を教わった。多分、日本人は珍しいのだろう。ユースは小学生みたいなグループが泊まっていた。ドイツ人でないのは、ぼくたち2人だけかもしれない。
ゼネシュタットへ、ぼく、K君、それにきのう会ったウィーンの人の3人で行く。思ったより遠く、ゼネシュタットへ入った時、その古さに少し驚いた。全体的にも、その開発に古さを感じ、ここ十数年の都市計画の発展を考えさせられた。歩車道分離とはいうものの、主な歩道は道路沿いで、まだ独立していない。そのため、商店街も道路に沿ってあることになる。ガレージも少ないようで、路上駐車が見られる。住宅は戸建て、二戸一か、切妻屋根の4階ほどが中心で、その中に8階ほどの高層が建つ。自然は豊かで、中心のリングのみでなく、端の方にも人工湖があり、水鳥がいる。大きく4住区に分けられているが、その間は以前の森を残しているよう。自然的な価値は高い、と思えた。まだ一部で学校や住宅を建設中で、最終的にはもっと戸数が増えるようだ。ビーレフェルトへの通勤者が多い、とのこと。
ハンブルクは大都市という感じだ。地下鉄網図を見ていると、少しロンドンを思い出した。その地下鉄で、市北部の事務所地区へ向かう。土曜の午後のためか人通りが少ない、ちゃんと発展できるのだろうか。町に戻り、アルスター湖畔を散歩する。歩行者空間は、あまり発達していないようだ。古い建物が壊され、どんどん近代的なビルに変わっている。
夜行列車でコペンへ向かう。駅周辺の夜景は、あまり大したことはない。
列車でコペンハーゲンとストックホルムへ向かい、都心部や郊外団地を見て回った。3日半の間にホテルはストックホルムの1泊だけで、列車で3泊と、ユーレイルパスを活用した貧乏旅行だった。オスロへ向かうK君とストックホルムで別れ、一人でドイツへと戻った。
1時半頃ブレーメンに着き、ノイエ・ファールと町を見学。ノイエ・ファールのセンターは、店が1層で単純。アールトの建物はいいが、住宅のデザインは比較的単純で、色で変化を出している。古いからか、今の目で見ると道路計画は単純で良くない。中央に池があり、全体的に緑が多く、きれい。しかし、人通りが少なく、遊んでいる子供もせいぜい2〜3人ずつ。理由としては、団地が古くなって子供が少なくなっているらしいこと、中心に池をつくったこと、歩行者の中心軸らしいものがないこと、買物・教会・学校などの施設が集中されていないこと、などが考えられる。社会学者の郊外団地批判も、このような点に端を発しているのかも知れない。
ブレーメン市庁舎前のレンガ街の狭い路地は、とても魅力的。新しい建物もうまく計画され、そこに鐘のきれいな時計がある。市庁舎も、とてもきれい。
デュッセルドルフを訪ねたのは、フィルムを送るのと、もう1度都心の緑地計画を見る事。さすがにうまく計画されてる、ドイツの最高レベルだ、と感心。緑がうまく建物や商店街と連絡されてる。ひとつは、街と緑地の間に幹線道がないか、あっても広く斜路の地下道でうまく結ばれている。ブレーメンのようなレベル差も殆どなく、その意味でもすっとつながっている。そして、緑地では、そばに幹線があるところでも、幅の広い生垣などで隔離し、そばに車が通っているなんて信じられないくらい。もうひとつは、建物が建っている町の部分にも可能な限り緑をつくり、公園へつなげていること。ケーニッヒ通りの川と並木道から芝生・噴水→公園という連絡はもちろん、他にも市電の軌道と車道の間や、ちょっと残った道路空間などに芝生や低い生垣がつくられている。そして、例の高層ビルなどは緑の中の建物という感じ。旧市街は、歩行者専用道が大幅に設けられている。車は一定重量までのが一定時間入れるよう。人通りもかなり多いみたいだった。主な歩行者道は12mほどはあるよう。もう少し緑が多かったら、とも思ったが。
ハーゲンへ向かう途中、ヴッパータールを通ったが、まさに谷に沿ってできた細長い町だ。ハーゲンは、駅前から数百メートル進むと、戦後つくられた緑地がある。路面電車の通りは、昼間には自動車通行禁止となり、プランターを道路に持ち出すようだ。
ハーゲンの田園都市という所を少し見る。緑の中に、2階建ての一戸建てやテラスハウスが並んでいた。多分、労働者住宅として建てられたのだろう。
ヴッパータールでモノレールを眺めた後、デュッセルドルフ郊外のホホダールへ。去年と比べ、人工湖に水が入り、数人の子供が涼しそうに水遊びをしていた。ホホダールは低層が多く、自然を多く残しているため、人通りはまばら。ペルラハに見られた道路から独立した歩行者道のネットワークの面は不十分。他の団地に比べ、自然と結びついた低層居住と言える。
次にレファクーゼンへ。駅前にバイエルの工場がデカンと構えている。歩いていける距離にセンターがあると知り、日がカンカン照る中を歩いていく。幹線道路沿いのバス停留所から歩道橋を渡ったとこに、2層で地下に駐車場のあるらしき建物群が。商店街というよりも1つの建物に多くの店が複雑に結合されている、といった感じ。その前で新市庁舎の建設中。さらにその横に歩行者専用空間となっている買物街があり、デパートなどが並ぶ。工業都市にもしっかりした買物街があるのに驚いた。なお、歩行者道の端には、動く斜路のついた地下道があり、好感が持てた。
その後、ケンペンへ向かう。ケンペンは小さい町だが、中心部の整備に努力していることがわかった。歩行者空間はまだ小規模で、計画の完成はまだ遠そう。市役所裏の方で、地下駐車場らしい工事も。旧城壁跡の緑地にもまだいくつか建物が残るが、そばの道路は一方通行になっている。なかなか魅力的な町だ。駅でRさんと落ち合い、ヴィリッヒへ向かう。
8月19日(月)フランクフルトからニュルンベルクへ |
デュッセルドルフからフランクフルトを経由し、ニュルンベルクへ。フランクフルトでは、ツァイルまで歩いて往復。駅前では地下鉄、都心ではあちこちで高層ビルの建設と、工事だらけで、部分的には東京以上かも。こんな町、ドイツでは他にない。ツァイルに行くと、トランジットモールになったばかりの感じ。幅は、路面電車+旧車道4車線+歩道で、25m以上あると思う。今まで見た歩行者空間のなかで、最も広い。旧車道にはプランターが置かれ、まだ応急的な感じだ(写真奥に路面電車が小さく見える。その後、ツァイルでも地下鉄の工事が進められ、路面電車が消え、現在は緑豊かな歩行者空間へと変化している)。
ニュルンベルクは観光都市で、旧市街の地図が至るところにある。ラングヴァサー団地を見学に行く。夕食後の散歩で、いろいろおもしろいところを発見。戦災で破壊された大都市で、ここまで昔の街並みを維持するのは、大変な仕事だっただろうし、今後も様々な問題が出てくるに違いないと思う。ユースになっているお城に泊まる。ユースで同室だったドイツの人、日本語ができた。少し濁った発音で、初めは何を言っているのかわからず。ひらがなはむずかしいが、カタカナは易しい、と言っていた。
8月20日(火)ニュルンベルクからテュービンゲンへ |
朝、市内を散歩し、市役所の歩行者空間拡大に伴うコンペをざっと見る。コンペの対象は、オブジェ、キオスク、商店への搬入方法、など。
シュツットガルトで列車を乗り換え、テュービンゲンへ。2つの川に挟まれたところが旧市街で、古い木造の建物が並ぶ。道路が狭く、おまけに坂もあり、歩行者街化が必要と思われた。市役所の背後に再開発のインフォメーションを見つけた。やはり環状道路をつくり、内部は歩行者空間を予定。改善対象地区は3つあり、道路に面した部分は保全し、内部は改造。3地区が選ばれたのは、市役所の拡張、デパートの進出、交通網による駐車場の限定で、その意味ではじめから目標が明確とのこと。今は詳しい現状調査を行い、再開発の準備をしているところ。旧市街は低所得者が多いそうで、形の保存をどのように利用面と調和させるのかが問題と感じた。環状道路建設を伴う歩行者空間化は、かえってマイカーを促進する恐れもあるかもしれない、とも思う。
シュツットガルトのユースの人、日本に来て、日本女性と結婚したそうで、日本語ができる。ユースで一緒になった日本人と、ドイツ人は自信過剰なところがある、などと議論。ドイツ人は食事をごちそうしてくれて親切だ、と言っている男の人もいた。
朝、まず書店へ行き、都市計画の事典、州建築法の解説書などを買う。午後、市内のW地区へ行く途中、F地区を通ったが、ここも一定の工住混合が認められる。W地区ではL広場の土地区画整理は終わり、今、それに伴う道路拡幅工事中。Bプランの建物は3分の2はできていたが、一部まだ。ガレージ、駐車場も計画どおり。ただ、一部まだ建っていない車庫があり、車庫を書類庫に利用してるのもあった。そのそばの宅地予定地は今はまだ畑。予定地と既存の住宅地とがはっきり区別され、都市計画制度の効果を物語っていた。
工場監督局を訪ねる。公害についてだが、工場の検査は、建築申請と苦情時で、法令にある5年ごとの検査も義務づけではないので、苦情がなければ成されない、との事。このうち、建設時の方が安価、簡単に対策が成され、これはとくに騒音について言えるそう。ぼくの考えが検証され、うれしかった。
そして、バスでレオンベルクへ。行きはゾリチュード宮殿のそばを通ったが、宮殿は思っていたより小規模で、工事中だった。レオンベルク旧都心のハーフティンバーの建物はきれいで、補修工事中のものもあり、用途は住宅が多い。少し離れた交通の便の良い道路沿いに、デパートを中心にレオ・センターという商業開発を行っていた点には、疑問も。他都市には、ハーフティンバー建物の背面を利用して商業開発を行っている例もあったが、レオンベルクの場合は、保存のための保存になる恐れがある。
帰りは別ルートで、シュツットガルトの上水道源のひとつとなっている池の近くで下車してみた。多くの老人が散歩し、飲み物を飲んでいる姿もあって、生活様式の違いを痛感。シュツットガルトにこんないい散歩ルートがあるとは、今まで知らなかった。
8月23日(金)ダルムシュタットからフランクフルトへ |
昼前にダルムシュタットに着く。有名な芸術家コロニーへ向かい、ロシアの教会と、ホッホツァイト塔へ。塔の上まで上がったが、狭い階段。1ヶ所だけ人が住んでいる気配があった。構造的には鉄骨も使われていたが、上のカーブは木でつくってた。上からダルムシュタットを眺めると、緑が多い。しかし、緑と町の融合では、まだ改善の余地があるように感じた。
アエロフロートで帰国したが、オーバーブッキングのため、モスクワでホテルに1泊させられた。「明日はバスでモスクワを見学できる」と言われ、楽しみにしていたが、ガイドがいないという理由で取りやめになった。結果的にホテルに軟禁され、空港とホテルの間をバスの窓から眺めるだけだったことは、残念である。
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上の日記でわかるように、私がロータリー財団の奨学生としてドイツへ留学したのは1973年夏からの1年間で、留学中の冬には第1次石油危機が勃発しています。当時の日本では、まだドイツのまちづくりへの関心が低く、出発前にロータリー例会に招かれた時、ロータリー奨学生の記録を調べた方から「ドイツへ留学するのは音楽関係の人ぐらいだ」と言われたことを覚えています。私もその資料を見せていただきましたが、確かにそうでした。ところが、帰国してみると、地区計画との関係でドイツの都市計画制度に関心が持たれてきていました。さらに、最近では緑地計画や地球環境問題の面からもドイツが注目されています。このような事情を反映し、近年のまちづくりに関する学会では、毎年のようにドイツに関する論文が発表されるようになってきており、時代の大きな流れを感じさせられます。
いろいろなドイツとの出会いがあると思いますが、私にとっては偶然の賜物だと言えます。私の出会いは、大学3年の夏休みにデュッセルドルフの都市計画コンサルタントで実習をしたことに始まります。実習先にドイツを選んだのは、分野を問わず実習先としてドイツが最も多かったからで、大学でドイツ語を学んでいたため、抵抗は感じませんでした。この日記の冒頭に、デュッセルドルフ郊外の新開発地ホホダールが出てきますが、ここはそのコンサルタントが中心になって計画した町です。実習中にも訪問していたので、5年の間にどこまで建設が進んだのかを知りたくて、ドイツ到着の翌日に訪問しました。
私が若い時期に留学できたのは、都城工業高等専門学校(都城高専)の建築学科に就職が決まって少し経過した頃、都城北ロータリークラブの会員だった高専の野口校長から出てきた話しによるものです。留学先は、都市計画の先進地として有名なイギリスを希望したのですが、私が学生時代にドイツで実習をしたことを知っていた校長からドイツ行きを強く勧められ、やむを得ずそれに沿って希望留学先を選び、応募しました。校長がドイツ留学を勧めた理由は、わかりません。私は、学校が九州の片田舎にあり、ドイツ語の講師を確保するのが容易でなかったことも関係しているのではないかと推測しています(当時の高専では、ドイツ語が必修でした)。しかし、今の時点で振り返って考えると、イギリス行きを断念させてくれた校長には感謝しています。というのは、都市計画の分野では、大半の人がイギリスかアメリカへ留学するので、ドイツのことを知っている人は少数で、希少価値があるからです。
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| シュツットガルト都心の宮殿広場からテレビ塔を見る(2002年) |
ドイツの滞在地ですが、フライブルクのゲーテで語学研修をしたのは、留学のための特別コースが置かれていたからです。留学先としてシュツットガルトを選んだのは、学生時代に実習したコンサルタントで私を指導してくれた方の出身大学だったからです。実習中、シュツットガルト出張から戻って来たその方に見せていただいたテレビ塔の絵葉書に魅力を感じたことを、よく覚えています。今では多くの都市に似たようなテレビ塔がありますが、コンクリートを生かしたこのような形態の塔は、シュツットガルトが初めてです。なお、すでに当時、都市計画を専門に教える学部もできていたようですが、まだ生まれたばかりで事情が良くわからなかったため、私は出身学科である建築学科で学びました。その後、建築から独立した都市計画や地域計画のコースが発展し、まちづくり分野では、留学先としてそちらの大学が選ばれることが多くなってきています。
私のドイツ留学は予定通り1年で終わり、ドイツ語能力が不十分な段階で日本に帰国しました。その後は、都城高専で、雑誌や本を購入して細々とドイツの都市計画を追い続けていましたが、福島大学へ移り、文献利用や現地視察面でドイツ研究の環境が改善されました。そして1990年代末からは、インターネットを活用してドイツ研究を進めることを身につけました。今でもドイツ語を理解するのはとても骨が折れる作業ですが、インターネットの威力には感謝しています。インターネットを活用するようになり、研究室でパソコンの前に座ったままでドイツのことを調べられるようになりましたが、面白いことに、それと同時に、調べた状況を自分の目で見るためにドイツへ視察に行きたいという願いが強くなりました。
振り返って考えるに、「1年間」という留学期間は短く、中途半端なものでしたが、「ドイツ研究へのきっかけ」としては十分なものだったと言えるでしょう。
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