大川小学校事故検証委員会矢印で間違った 戻る
放水路工事:完成後まだ80年の放水路は巨大津波の洗礼を受けていなかった・・・

 2011年3月11日に起きた東日本大震災の大きな特徴は、津波によって多数の死者が生じたことです。その中でも最も悲惨な事故は、恐らく石巻市の「大川小学校の悲劇」でしょう。多く論じられたこの事故に対しては、第三者委員会の「大川小学校事故検証委員会」が設置され、約1年間の検討を経て、2014年3月1日に最終報告書が提出されました。生存者が少なく、検証開始が震災から約2年後で、調査権もないため、「事実調査に一定程度の限界があったことは否めない」が、「そうした状況下でも精一杯の努力をし、当初目的を果たすべく検証を進めてきた」、と報告書に記されています。

 この事故に関心を有していた私は、2013年10月末の新聞で、事故検証委員会が「事実情報に関するとりまとめ」を公表し、意見を募集していることを知りました。そこで、インターネットを通じて「事実情報に関するとりまとめ」を入手して読み、驚きました。「学校及び地域の歴史」として、江戸時代末期からの災害の歴史を記す一方で、1911(明治44)年から1934(昭和9)年まで23年かけて実施された北上川放水路工事に全く触れていなかったからです。そこで、「状況が詳しく説明されているが、北上川改修工事に触れていない」と、工事について追加記述するように提案しました。しかし、検証委員会は、放水路工事(新北上川)に全く触れないまま、「大川小学校事故検証委員会報告書」(以下「最終報告書」と呼ぶ)を提出しました。

 当初は比較的軽い気持で意見を出した私ですが、現在では「大川小学校の先生方と、小学校に避難してきた地元の方が、東北一の大河『北上川』の放水路工事で設置され、まだ巨大津波の洗礼を受けていない放水路と堤防を信頼していたことが避難先決定に影響し、悲劇を生んだ」と考えています。そこで、検証委員会で行われた議論を検証し、第3回検証委員会で「矢印」の理解で重大な間違いをした点を明確にしたいと思います。

  • 河北新報への投書
  • ポイントは「川からか、陸からか」
  • 委員会が「陸から」とした経過矢印
  • 「陸から」という委員会見解の矛盾
  • 最終報告書における不可解な手直し
  • 北上川放水路という地形の特殊性
  • 放水路工事と津波の速度
  • 放水路建設がなければ「悲劇」もなし
    津波高速化と避難、地裁判決等との関連、再発防止
  • (2014.03.10/2018.05.08更新)


    河北新報への投書
     事故検証委員会が公表した「事実情報に関するとりまとめ」に対する意見は、2013年11月30日の第7回検証委員会で扱われました。提出された意見で、北上川放水路工事に触れていたのは私ともう1件ありましたが、放水路工事が事故に関連した可能性を指摘している意見は、私以外には見出せませんでした。
     提出された意見を扱う第7回検証委員会が、私が記した放水路工事に全く触れなかったことは予想外の展開で、とても信じられませんでした。しかも、検証委員会のホームページでは、私が根拠として示した新聞記事が見出しを含めて全て黒塗りにされていて、ショックを受けました。その影響で、その後は事故検証委員会の情報を避けるようになりました。
     2014年1月中旬に事故検証委員会の動向が気になり、久しぶりに検証委員会のホームページを眺めてみました。すると、第8回検証委員会における遺族と意見交換から、津波襲来の検証を担当していた調査委員が退いたらしいことと、第4回検証委員会における津波襲来時刻の算出に問題があり、津波の到着時間は遅くなると認めたことがわかりました(第8回検証委員会議事録pp.67-68)。そこで、「私の話しも検討してもらえるかも知れない」と考え、思いついたのが新聞への投書です。
     宮城県で広く読まれている「河北新報」に投書したところ、1月31日に載せていただきましたので、ここに画像ファイルで紹介します。

    放水路工事の影響も検証を


    ポイントは「川からか、陸からか」
     放水路工事に全く触れていなかった「事実情報に関するとりまとめ」ですが、もし放水路が津波被害にほとんど影響していないとすれば、触れていなくても問題ありません。マスコミが事故について、「津波が川から来た」と報道していたので、その津波の経路となった放水路工事の影響は甚大なはずです。ところが、検証委員会が作成した「事実情報に関するとりまとめ」は、堤防を越流した津波には人を驚かせる効果はあったが、数分後に到達した陸上を遡上した津波の方が威力が大きく、致命的であったと説明していました。これは、それまで全く報道されていなかったことで、検証委員会の検討で新たに明らかになったとされていました。事故の原因が川からの津波ではない場合は、放水路工事は大川小学校の悲劇に関係ないことになります。
     しかし、津波について多数の新聞記事を集めていた私は、検証委員会の説明に疑問を感じました。それで、手持ちの資料を根拠に、「あのように甚大な被害は北上川の存在なしでは説明できないと考えられるので、その根拠を説明したい」として、意見を提出しました。
     以下、私の提出意見から、根拠に関連する部分を紹介します。なお、提出意見に示した新聞記事は、検証委員会のホームページ資料で「何もかも真っ黒に」塗りつぶされていました。私も著作権を侵害したくないので、記事4以外は「見出し」だけ紹介することにします。

    根拠1:当初の新聞報道
       震災後の早い段階の新聞報道である記事2に、下線部のように、「川から津波が襲ってきた」と明確に書かれている。関係者の記憶が明確な段階の記事なので、信頼性が高い。
    記事2:石巻・大川小 津波で94人不明 救出の只野君「くじけない」(河北新報、2011年3月20日)

    根拠2:津波到達時刻の差
       「とりまとめ」も認めているように、陸上を遡上する津波は川よりも遅いので、上流に進めば進むほど到達時刻の差が広がる。今回の北上川遡上スピードは、時速30キロと推定されている。陸上に関しては、記事3のように、千葉工業大チームが、名取市閖上地区でNHKが撮影した映像から、秒速3.0メートル(時速10.8キロ)と推定した結果がある。
       大川小学校は、海岸から約4キロ離れている。この距離を遡上するのに必要な時間は、時速30キロであれば約8分だが、10.8キロの場合は22分以上かかるので、約14分の差が生じる。これだけ時間があれば1キロ程度は移動が可能で、山に逃げるのに十分な時間だと考えられる。陸上の遡上速度は条件によって異なるので、閖上地区の5割増の時速16.2キロと仮定しても、到達に15分弱かかる。7分近く差があるので、これほど多数の死者が生じるとは考えられない。

    提出期限までに津波流速の式を見つけられないまま書いていますが、それほど大きな誤りはないだろうと思います。

    記事3:東日本大震災 仙台平野の川 陸地の倍の速さで津波逆流(毎日新聞、2011年5月22日(日)2時33分配信)

    根拠3:北上川左岸における状況
       地震の後、今回の経験を残すため、河北新報が読者に体験談を募った。掲載された体験談のなかに、北上川左岸の北上中学校付近で津波に遭遇し、その状況を眺めたという記事4がある。示されている時刻を「とりまとめ」p.51の表と比較すると、表の「立ち上がり」が記事の第1波、6分後の「ピーク」がほぼ第2波に相当すると考えられる。川を逆流した津波が堤防を乗り越えて住宅をのみ込んだ状況が説明されており、北上川を遡上する津波の威力の大きさがわかる。平地が狭く、山が迫っている左岸では、陸上を遡上する津波は考えにくいが、右岸においても、川を遡上する津波に同等の威力があったはずである。したがって、陸上を遡上する津波を待つことなく、川からの越流で壊滅的な被害が生じたと考えられる。

    この根拠となる記事4は、検証委員会の津波の威力に関する推定が誤りであることを明確に示す重要なものなので、下に引用します。著作権を考慮し、一部を説明文(文字をここと同じ茶色系にしています)に代え、他もできるだけ略そうとしましたが、文に無駄がなく、残念ながらほとんど略せませんでした。

    記事4:わずか8分間、集落越え住宅は粉々 (河北新報、2011年5月13日)
     (著者は石巻市で運転中に地震にあい、帰宅するため、新北上大橋から北上川左岸の堤防上を走る国道398号線を、津波に向かって河口方向へと走っていました。)
     午後3時23分、第1波が30〜40センチの高さで北上川を逆流していきました。この程度なら大丈夫と車を進めた直後、(略)月浜第1水門前で、堤防より高い位置に漁船を発見。第2波が堤防を超えそうな水位まで迫っていたのです。慌てて高台にある(略)「にっこりサンパーク」に上る市道にハンドルを切りました。
     高台から見下ろすと、川を逆流した津波が下流の集落を越え、自分が上ってきた市道下のトンネルからダムの放水のように噴き出していました。まもなく高さ15メートルほどの黒い波が堤防と水門を乗り越え、すでに満水状態だった支流の皿貝川を一瞬で越えて眼下の水田と住宅をのみ込みました。
     バリバリという音とともに、下流の住宅が続々と流されて市道を乗り越え、粉々にされました。第1波からわずか8分間(つまり、午後3時31分まで)の出来事でした。


    根拠4:周辺地形の考察
       大川小学校のある釜谷地区に陸上を遡上した津波が押し寄せる場合、地形的に釜谷霊園付近が狭い。このため、この狭い部分を目ざして流れが集まり、速く高くなり、そばを流れている北上川に溢れるであろう(名取川の仙台市側で、NHKが川に溢れる状況を撮影している)。狭い部分を過ぎた後は平地が扇型に広がるので、こんどは津波の高さが急激に低下し、威力が弱まると考えられる。大川小学校はその先にあるので、狭い部分をよほど高い津波が通過しないとあのような被害は生じないと考えられるが、衛星写真等で釜谷霊園付近を眺めても、強大な津波が通過した形跡は認められない。一方、川からの越流が主体の場合、2つの山に囲まれて奥に行くほど狭いV字形になっているため、堤防から流れ落ちて加速し破壊力を増した津波(記事3)が、地形によってさらに威力を増し、破滅的な影響を与える可能性があると思われる。

    根拠5:ユーチューブ映像
       石巻市職員が、津波襲来時に新北上大橋と三角地帯周辺を撮影した映像が、ユーチューブに「石巻市立大川小学校の近くに押し寄せた津波」という名称で掲載されている。たしかに陸上部分を流れる津波も撮影されているが、川を遡上する津波と陸上を進む津波が一体化し、堤防がどこにあるのかわからなくなっている。これは、NHKが名取川周辺で撮影した、川と陸上に別れて津波が遡上する映像とは質が全く異なる。三角地帯を流れている津波も、海から入った津波ではなく、川から越流したものがさらに上流へと向かっている可能性が高い。

    根拠6:他地区における河川遡上被害例
       東日本大震災では、北上川以外においても、川を遡上した津波により、海から離れた地区で津波被害が出ている。河北新報の記事5によると、みな「海からは距離がある」ので津波は来ないと考えて避難せず、別の場所から避難に戻ったり来たりして津波に遭った者もいる。
    記事5:川から津波が 海見えぬ山あいの集落まで爪痕(河北新報、2011年5月7日)
    小見出し:内陸4キロ油断突く 気仙沼・本吉 / 危険区域外町覆う 宮城・南三陸 / 想定縛った「チリ」 宮城・女川 / 速さ陸地以上、早く避難を 東北大・真野教授

    委員会が「陸からの津波」と判断した経過 ・・・「川からの津波」でなく
     「大川小学校の悲劇」については、地元の河北新報を始め、複数の新聞社が特集で多くの記事を掲載し、そこには体験者の話が紹介されています。私が調べた新聞記事は、みな「津波は川から」としており、「陸から来た津波」について書いた記事は見出せませんでした。それでも事故検証委員会が「陸から来た津波」を主因と判断した経過を追ってみたいと思います。
     第1回と第2回の検証委員会は、主に調査の方針や進め方を議論しており、津波の状況を議論しているのは、「中間とりまとめ」を扱った第3回から、「事実情報に関するとりまとめ」を議論した第5回までなので、この順に見ていきます。

    第3回検証委員会 2013.07.07
    第3回検証委員会で説明された「大川小学校周辺の実績津波流向」と、北上川を遡上して流れ込んだ津波の方向。「大川小学校事故検証中間とりまとめ」p.39と40の図を組み合わせて作成。

     この回に、津波の来襲につき、方向と時刻、高さが説明されます。示された資料のひとつが、右の赤い矢印です。石巻市が依頼し、現地調査と航空写真によって電柱の倒伏方向、浮遊物の付着方向を判断してまとめられた津波の流向で、「最も威力の大きい流れによる痕跡と考えられることから、必ずしも最初に来襲した津波の流れの向きとは限らない」とされています。委員会でも、「大川小学校の事故に関しては、最初にどのように津波が襲ってきたのかが重要ですので、この方向というのが必ずしもそれを表しているわけではない」と説明されます(議事録p.30)

     地域住民等に対する聴き取りの結果も報告されます。大川小付近が最初に津波に襲われたと考える時期の津波として、海から陸上を遡上してきた津波と、北上川の堤防を越えた津波、そして北上川支流の富士川を遡上して堤防を越えた津波、の3つあると説明されています。

     さらに、北上川から溢れた地点として、図の1〜3の3箇所(オレンジ色で示した1、2、3の矢印)が指摘され、越流の原因について議論されています。このうち、3については堤防が決壊したことがわかっています。1と2については、資料で「越流前の水面の高さが堤防の高さよりも高かったという複数の証言がある」とされており、2は「新北上大橋にぶつかってそこが堰のようなかたちになって堤防を越流してきた」と説明されます(議事録p.30)。矢印1(以下「新町裏」と呼びます)についても3と同じく堤防が切れたもので、これから破堤箇所を慎重に調べると報告されました(議事録p.33:この結果、中間とりまとめに「破堤」と書き込まれます)


       その後の議論の流れから、検証委員会はこの段階で「釜谷地区では陸からの津波の威力が川からの津波より大きかった」と判断し、そのまま検討を進めていったことがわかります。たとえ「放水路工事」は見落としたとしても、津波の襲来に関し、「川からの津波がポイントだ」と適切に判断できる可能性はありました。検証委員会にそれができなかったのは、上に示した「大川小学校周辺の実績津波流向」図の矢印を過大に評価し、その硬直的な判断から抜け出せなかったためです。

      検証委員会が間違ったポイント:矢印
       初めて遺族と本格的な議論が行われた第7回検証委員会の「ご遺族との意見交換」で、ある遺族が、検証委員会が示す津波の方向は、遺体やがれきの状況に合わないと発言します。委員長は、これに「どういうかたちでご遺体が発見されたか」も重要だと前置きして、「ご遺体が、この前も伺いましたけれども、砂の中に埋もれていて、その上にいろんながれきがあって、さらに、その長面(ながつら)のほうから流されてきた傷付いたご遺体はその上にあったということは、とても重要なこと」だと認めます(第7回検証委員会議事録p.50)。つまり、生徒の命を奪った津波は、遺体を埋めるほどの砂を伴う強力なもので、陸を経由して長面方向から到達した津波とは別だったわけです。これが、「川を遡上し越流してきた津波」です。

       大川小学校周辺を、まず川からの津波が襲い、その後に陸を遡上した津波が襲った点は、検証委員会も認めています。陸を遡上した津波は、川を越流した津波ほどの強大さはなかったものの、川からの津波の痕跡を消すには十分な威力を有していたため、「先に襲った強力な津波の跡が消されてしまった」、と考えられます。

       津波の行動に関する様々な情報を集めてから総合的に検討するのではなく、それに先だつ第3回検証委員会の段階で(まだ、遺体が砂の中に埋まっていたことも聞いていなかったはずです)、「実績津波流向の図が示す矢印が、大川小学校周辺における最も威力の大きい流れを示している」と信じてしまったことが、大川小学校事故検証委員会の判断を誤まりへと導きます。もちろん、予算が決められ、期限が限られた検証作業なので、あらかじめ設定した順序で検討が進められたことは理解できます。しかし、もう少していねいに矛盾点が出てきたら当初に戻り、フィードバックをしながらゆっくり検討を進めていけば、避けられたミスだと思います。

       上記の委員長発言でわかるように、その検証委員会も、最後の段階で遺体の状況が報告書の津波到達方向と矛盾することの重大さを認め、修正が必要だと考えたわけです。しかし、報告書作成作業が最後の段階まで進んでいたためか、初めに戻ってじっくり見直すことは行わず、ここに示している「不可解な手直し」を行っただけです。こうして、間違った理由も、それによる報告書への影響も検討されないまま、遺体を埋めるほど大量の砂をもたらす原因となった北上川放水路工事に全く触れない報告書が提出されてしまいました。


    第4回検証委員会 2013.08.24

     第4回委員会では、第3回委員会で北上川から溢れた地点として指摘された3箇所のうち、矢印1の新町裏の扱いが微妙になります。調査の結果、まだ破堤していないとわかったためです。このため、前回委員会の「破堤」という表現が、越流による溢れに訂正されたと、資料に記されています。

     議事録によると、大川小学校付近への津波は、陸上を遡上していった津波と、北上川の中を遡上して越流したものの2つに大きく分けられ、川を遡上したものが先に到着したと説明されます(議事録p.15)

     委員会では、新北上川の水位計と、学校に残されていた時計を元に、津波が到達した時刻が議論されています。まず、津波第1波の新北上大橋の到達は、福地と飯野川上流の水位計(どちらも新北上大橋よりかなり上流ですをもとに、立ち上がり時刻が15時26分頃、ピーク時刻が32分頃と推定されます。この津波が大川小学校付近に来襲したと考えられますが、大川小学校で発見された時計は15時37分頃の時刻を指しています。したがって、津波が堤防を乗り越えて大川小にどう到達したかを検証する手前の段階にある、と説明されています。

     なお、第3回検証委員会では、津波のルートとして、陸上を遡上していった津波と、北上川を遡上して越流したものに加え、富士川を遡上して堤防を越えた津波があるとされていました。ところが、この第4回は富士川に全く触れていません。これは明らかに説明不足ですので、ここで説明しておきます。

       最終報告書の「地域住民の避難行動」(最終報告書p.74-77)によると、北上川からの越流を見たというのは住民AとEで、富士川からの越流を見たのは住民FとGです。Aは富士川の堤防に登って確認しているので、北上川からの越流の方が早く始まったのは確実です。なお、FとGも、「北上川からは越流していなかった」と言っているわけではありません。
       さらに明確な証言が、2011年9月8日の河北新報に掲載されています。海側から戻って三角地帯で車を誘導していた市職員が、目撃した光景を次のように語っています。「誘導が一段落し、ふと川を見た。目を疑うような光景が広がっていた。(中略)北上川からあふれた水が富士川に滝のように流れ込んでいた。堤防道路(注:三角地帯のこと)は富士川より5〜6メートル高かったが、川に流れ込んだ水が駆け上がるように迫ってきた。」職員は、この直後に裏山に駆け上り、助かります。
     検証委員会から説明がないので、どの情報を基礎に判断したのかわかりませんが、富士川を上から見下ろせる位置からの目撃証言の信頼性は高く、北上川からの越流が富士川を満たし、その後に富士川の堤防から越流したことは明らかです。だから、富士川を遡上してきた津波の影響は考えなくていいでしょう。

    第5回検証委員会 2013.10.20

     この委員会で、津波の挙動につき、従来の「児童や教職員、地域住民の命を奪ったのは川からの津波」という考えが否定され、「主として陸上を遡上した津波」に転換されます。そこで、議事録で転換の経過を追跡しました。

     判断の重要な分かれ目となったのが、第3回委員会で示され、第4回委員会で「破堤」から「越流による溢れ」と訂正された、矢印1の「新町裏の越流」です。右岸の堤防を検討した結果、5mを越える高さが続いていることを根拠に、「新北上大橋の右岸下流部では大規模な越流が起こりづらいということを示す」(議事録p.7)とされます。

     一方、大橋直下からの越流は、新北上大橋のトラスに樹木や船舶などが引っかかってダムのような状態となる「堰効果」によると認定されます。しかし、この越流津波が人々の命を奪ったと考えるには、2つの点で問題があるとされました。ひとつは、生存者が証言する、突風のような風や、家々が破壊されるような大きな音です。委員会は、越流した津波は、「突風を起こしたり大きな音を立てて家々を破壊するほどの水量ではなかった」と考えました(議事録p.8)、突風や音には「だいたい5m以上ぐらい」の津波が必要(議事録p.9)だから、とされています。

       残念ながら、委員会は、川から越流した津波の水量を少ないと判断した根拠に触れていません。前後の関係からは、越流が新北上大橋の「堰効果」によるものに限定された結果ではないかと考えられます:確かにその場合は大量の越流は生じないでしょうが、なぜ堰効果だけと判断したのかが不明です。一方、陸上を遡上した津波の水量を「膨大」(議事録p.23)と判断した理由も説明がありません。これまでの経過を辿ると、根拠と考えられるのは第3回検証委員会で示された「大川小学校周辺の実績津波流向」しかなく、この図を重視しすぎたことが、ここに説明しているような間違いを生んだと思われます。
       おそらく、検証委員会に置かれている避難行動の作業チームでは、これらの点が議論されているものと思います。しかし、第4回検証委員会で富士川の説明がなく、第5回委員会にもこのように不明な部分があることは、「チームの検討内容を委員会に反映する点が疎かにされ、検証作業の一部が密室化している」点で、大いに問題です。

     もうひとつの問題は、水位計から推定される越流時刻(遅くとも15時32分)と、大川小学校の時計停止時刻の間が開きすぎている、とされた点です。それまで、検証委員会は、越流津波は人命を奪ったが時計を止める程の深さはなく、後に到達した陸上遡上津波が時計を止めたという仮説を立てていたそうです(議事録p.7)。しかし、後に到達した陸上を遡上した津波が人命を奪った可能性もあるとして、15時22分に河口まで1キロの地点を通過し、その後に陸上を遡上して37分頃に時計を止めるのに必要な陸上津波の遡上速度を計算したところ、分速270mになりました。そして、検証委員会は、この数値を陸上遡上の津波速度として「妥当」と判断します(議事録p.8)。平均分速270mはある程度妥当なのかもしれませんが、後に説明するように、河口まで1キロ地点を通過したのは「15時22分」よりかなり後のことです。

     このような経過を経て、大川小学校付近を襲った津波に関し、検証委員会は「越流した津波は人々に強い恐怖を感じさせ、避難を促す効果はあったが、突風を起こしたり大きな音を立てて家々を破壊するほどの水量ではなかった」と考え、「多くの人命が奪われたのは、越流津波の数分後に陸上を遡上してきた高さ数メートルの津波によるものと推定」することになります(議事録p.8)

       東日本大震災で、4km以上の内陸で10m以上の浸水深を記録したのは、大川小学校付近だけです。陸上を遡上してきた津波の強い威力につき、委員会は、地形の平坦さと、釜谷の手前で山が張り出し、堤防との間が狭くなる地形なので、津波が高さを維持して遡上し、「いわば、北上川に平行して、『第二の北上川』が形成され」、「その『第二の北上川』の終点は大川小学校」となる、と説明します(議事録p.9)。説明の前半部は、私が提出した意見の根拠4とほぼ同じです。しかし後半部は逆で、第3回検証委員会で示された「大川小学校周辺の実績津波流向」の矢印にも、波動の進行に関するホイヘンスの原理(ウィキペディア)にも反しており、根拠らしいものは見あたりません。

    「人命を奪ったのは陸からの津波」という委員会見解の矛盾

     第5回検証委員会の「人命を奪ったのは陸からの津波」という説明には、2つの点で大きな矛盾があります。さらに、第3回検証委員会後の7月20日に行われた遺族向け報告会で出された意見とも、整合しません。これらの疑問と、どう考えるべきかを検討しましょう。


    矛盾1:越流地点と水量

     委員会は、川からの越流につき、堤防の高さを根拠に「新北上大橋の右岸下流部では大規模な越流が起こりづらい」と判断し、突風や音も引き起こせないとしました。しかし、次の2点から、これは誤りと考えられます。

    1. 私の委員会提出意見「根拠3:北上川左岸における状況」に示した記事から、新北上大橋の左岸下流では、至る所で膨大な越流が生じ、音とともに家屋をなぎ倒していったことがわかります。堤防の高さは右岸と左岸で差がないので、右岸でも同じような状況が生じたはずです。

    2. 検証委員会は、「川から越流した津波」と、「主として陸上を遡上した津波」について、目撃証言を元に高さを記しています。それによると、越流する津波を目撃した住民や児童は、「堤防を越えて来たしぶきをあげる津波が手前にある2階建て家屋よりも高いものだった、堤防を越えたあとに大きな音をたて砂埃をあげていた」などと述べています。一方、陸上を遡上する津波については、「家屋とほぼ同じ高さ」という証言が2件あるだけです(最終報告書p.64)第5回検証委員会は、突風や音には「だいたい5m以上ぐらい」の津波が必要だとしています。だから、目撃証言をもとに考えると、突風や音の原因となったのは、「陸上を遡上した津波」ではなく、「川からの越流」になります。


    矛盾2:「時計停止時刻の謎」は説明可能

     検証委員会は、早い段階から、水位計から推定される越流時刻と、大川小学校の時計停止時刻の間が「5分以上」と、開きすぎていることを問題としていました。第5回検証委員会が、人命を奪ったのは「主として陸上を遡上してきた津波」だと推定した重要な根拠が、この時刻差にあります。

     「根拠3:北上川左岸における状況」に示した記事4の「わずか8分間」は、15時23分から31分までの状況です。月浜第1水門付近の住宅は、ほとんどが北上川堤防から150m以内にありました。検証委員会は、月浜第1水門における津波のピークを15時28分と推定しているので、住宅が津波にのみ込まれて破壊された15時31分は、推定ピークの3分も後です。越流はピーク時刻までに開始したはずなので、検証委員会推定のピーク時刻で考えると、住宅が粉々になるまでに「少なくとも3分」を要したわけです。

      なぜ「わずか150mに3分も」要したのか検討し、こちらに説明しています「津波のピーク時刻が検証委員会の推定よりも2分以上遅かったのが主因」と考えられる、という結論になりました。


      津波につき、検証委員会が推定した「ピーク」時刻実際のピークと考えられる時刻は、2分以上ズレています

     大川小学校は、北上川堤防から近いところが150m、遠いところは220m程度です。月浜と同じ条件なら、検証委員会が新北上大橋にピークが到達したと推定した15時32分の3分後、つまり15時35分頃に津波が到達しているはずなので、確かに2分程度の遅れがあります。この「2分の遅れ」は、次の2点で説明が可能です。

    1. 右岸と左岸の違いに、支流の富士川と皿貝川があります。「根拠3:北上川左岸における状況」に示した記事4によると、越流津波は左岸の皿貝川を「一瞬で越え」ました。一方、幅が倍以上ある右岸の富士川については、第4回検証委員会のところで富士川に関して説明した市職員の目撃証言から考え、北上川からあふれた水が富士川に流れ込み、富士川を一杯にして越流するまでに、1分前後の時間がかかったものと思われます。

    2. 検証委員会が確認した3つの時計はいずれも電池式で、15時36分40秒、15時37分46秒と15時38分53秒に停止していました。検証委員会は、これらを平均した15時37分頃に津波が大川小学校付近に到達したと考えました(最終報告書p.63)。つまり、委員会は「津波が大川小学校付近に到達した瞬間に、小学校の全ての時計が一斉に停止した」という状況をモデルに判断したわけです。
       しかし、このモデルが成立するでしょうか。大川小学校の校舎は規模が60m×50mほどあり、窓は北上川の方を向いたり逆方向を向いたりしています。電池式の時計に誤差があることに加え、「津波が校舎内で猛威をふるって時計を止めるのに1〜2分を要した」ためと考える方が適切だと思います。

         この考えは、2011年10月2日に放映されたNHKスペシャル「巨大津波・その時ひとはどう動いたか」に出てくる名取市閖上の荒川さんの話しで確認できます。背後から迫る津波から逃れるため、荒川さんは2人の子どもの手を引いて閖上中学校へ飛びこみますが、階段は人で一杯で、2階に上がれません。やむなく階段を求めて廊下を奥まで走ってドアを開けると、そこは屋外で、左右から津波が迫っていました。ドアを閉めるのと、左右からの津波がぶつかるのが同時で、校舎は津波に取り囲まれます。しかし、背後から呼ばれた荒川さん親子は音楽の階段教室へ戻り、机によじ登って難を逃れました。つまり、津波が校庭に押し寄せて校舎を取り囲むことと、校舎の内部で猛威をふるうこととの間に、若干の時間差があるわけです。

       津波になぎ倒される木造の家屋では、津波の襲来とほぼ同時に時計が止まるでしょう。しかし、津波に耐え得る鉄筋コンクリートの建物は別です。むしろ、時計が止まった15時36分、37分、38分の少し前に、津波が校舎に達していたと考えられます。

    さらなる矛盾:新北上大橋の下流と上流の越流時刻比較

     検証委員会は、第3回委員会の結果をもとにまとめた「中間取りまとめ」を7月19日に石巻市教育委員会に提出し、翌20日には、検証委員も参加した「遺族向け報告会」が行われます。報告会は、メディアに非公開とされました。しかし、ジャーナリストの加藤順子さんが、遺族提供の音声をもとにダイアモンド社の大津波の惨事「大川小学校」〜揺らぐ“真実”〜の第25回『遺族と委員、どちらが専門家なのか?「報告会」で表れた大川小検証委の“アバウトさ”』に内容を紹介してます。

     とくに注目されるのが、津波が先に来たのは、釜谷(大川小学校がある新北上大橋下流)と間垣(新北上大橋上流側の集落)のどちらか、という問題です。ある遺族の方は、釜谷から避難しようとした際に、間垣がすでに決壊していたので、上流方向ではなく南方向の雄勝へ向かいました。間垣が先という点については、数名が同じ証言をしているそうです。釜谷に先に津波が来たことになっている中間報告はおかしいと追求された検証委員会メンバーは、「持ち帰って検討致しますけれども」と回答しています。

     中間報告は、川からの津波に関し、大川小学校付近に最初に津波が浸水した時刻は15時30分〜32分頃(もしくはそれより数分前)、間垣の破堤時刻はおおむね15時31〜33分頃としていました。その後、間垣の堤防越流開始は15時32分〜33分頃とされます(第4回検証委員会議事録p.20)。一方、大川小学校に関係する下流側の越流開始時刻は「遅くとも15時32分」のままで、これが、第5回検証委員会が、生徒の命を奪ったのは川からの津波ではなく陸を遡上した津波だと判断する重要な根拠となります。逆に言うと、間垣の破堤時刻の方が早いという遺族の証言は、「命を奪ったのは陸からの津波」だと強引に結論づけた検証委員会の誤まりを強く示唆するものだと言えます。

       上流の間垣に先に津波が来た原因は、「破堤」と「越流」の違いにあると考えられます。第4回検証委員会で、間垣は破堤したが、新町裏がある釜谷は破堤していなかったことが報告されます。越流は津波が堤防より高くなって初めて起きる現象ですが、堤防に弱い部分があると、早い段階で決壊して津波に襲われます。この破堤が、間垣の方に先に津波が来た原因でしょう。

    結論:北上川からの越流が生徒の命を奪い、大川小学校を襲った

     では、どう考えるべきなのでしょうか。問題となる越流開始時刻ですが、検証委員会の推定は、津波の推定ピーク時刻が2分以上早いことに加え、富士川を越える時間も無視しています。富士川を越えて集落へ越流が始まるのは、両者の合計で3分前後は遅くなります。津波が月浜第一水門付近と同じタイミング、つまり検証委員会が推定した津波ピーク時刻(15時32分)より2分強遅く越流し始めたとすると、富士川を越えて集落を襲うのは15時35分前後です。間垣の越流開始より2〜3分遅れるので、三角地帯から間垣を見て南の雄勝へ向かった遺族の方にも納得していただけると思います。

     富士川の堤防から大川小学校までは、100m程度しかありません。富士川を越えた津波は、住宅を破壊し、15時35〜36分頃に大川小学校に到達した後、校舎内へ侵入していったと推定されます(検証委員会は、この「津波が校舎内で猛威をふるって時計を止めるのに要した時間」も無視しています)。水位計に北上川と富士川の目撃情報を組み合わせて推定した越流時刻と、大川小学校の時計停止時刻との間に、検証委員会が主張するような矛盾はありません。

    最終報告書における不可解な手直し ・・・ 「密室」が矛盾を追加
     以上述べた津波の挙動につき、「最終報告書」で修正された点がいくつかあります。そこで、第5回検証委員会までの議論を基礎にまとめられ、2013年10月22日に公表された「事実情報に関するとりまとめ」(以下「とりまとめ」と略す)と「最終報告書」を比較し、表にまとめました。

     分かりやすいように、「ポイント」の列に私の推定結果を、「とりまとめ」と「最終報告書」の列には記載ページ数を、どちらも この書式で 示しておきます。

    ポイント(私の推定)とりまとめ最終報告書
    リアス式海岸への放水路設置いずれも全く触れていない。
    北上川からの越流と開始時刻

    (堤防を超える高さの津波が、
    15時34分過ぎに越流を開始し、
    35分頃には富士川も越流した)
    新北上大橋の堰効果によって生じたものと推定され、15時26分(立ち上がり到達時刻)から32分(ピーク到達時刻)までの間に生じた可能性が高い。(p.51)津波が堤防を越える高さだったことに加え、新北上大橋のトラスもあいまって越流が生じた。開始時刻は、15時26分(立ち上がり到達時刻)から32分(ピーク到達時刻)までの間だった。(p.63)
    大川小学校の時計停止原因
    (北上川から越流した津波である)
    陸上を遡上して大川小学校付近に到達した津波によって停止したものと考えられる。(p.51)陸上を遡上して大川小学校付近に到達した津波で停止したものとみなされる。(p.63)
    生徒らを巻き込んだ津波

    (北上川から越流した津波である)
    大川小学校付近に到達した津波によって犠牲になった人々の中には、最初に堤防を越流した津波で被災するものもあったと考えられるが、大川小学校の児童・教職員をはじめ、釜谷地区にいた人々の多くは、その数分後に陸上を遡上して到達した津波に巻き込まれて被災したと推定される(p.52)大川小学校の児童・教職員をはじめ、同校付近で犠牲になった人々は、北上川の堤防を越流した津波と、その後に陸上を遡上して来襲した津波の両方に巻き込まれて被災した。(p.65)
    三角地帯への移動時刻「15時15分頃から津波来襲まで」の項目に書かれているが、時刻の明記はない。(p.63)15時33〜34分頃になって、校庭からの三次避難として三角地帯への移動が決定された。(p.84)
    移動と津波越流の関係校庭から150mほど移動して県道に差し掛かったあたりで、先頭付近にいた一部児童は新北上大橋直下付近から津波が越流し、付近の家を破壊した様子を目撃した。(p.63)校庭から150mほど移動して県道に差し掛かったあたりで、一部の児童らは新北上大橋直下付近から津波が越流し、付近の家を破壊した様子を目撃した。(p.85)

     つまり、北上川を遡上した津波の高さで越流が生じたとして、「生徒らを巻き込んだ津波」に越流と陸上遡上の津波の両方を並べ、越流した津波も被災原因の可能性があると認めたように見えます。しかし、陸上を遡上して「来襲した」という表現が、陸上の方が威力が強いとほのめかしているように聞こえ、越流開始時刻と、陸上を遡上した津波で時計が停止したとする点も、見解を変えていません。このため、川からの津波の威力をどう理解すべきなのかが、全くわかりません。

     この修正に関連すると思われる説明が、最終報告書案が示された2014年1月19日の第9回検証委員会にあります。遺族との意見交換で、検証委員会委員長が、津波の解析には少し不正確な部分があったので、それはこの報告から削除していると述べています(第9回検証委員会議事録p.34)。また、水位計のデータを直線で結んで推定したことは必ずしも正しくなかったと判断し、グラフを読み間違えていたことも認めました(第8回検証委員会議事録p.67)。にもかかわらず、北上川からの越流開始時刻が、依然として直線推定の結果であるピーク到達時刻「15時32分まで」とされている点は、不可解です(「さらに遅い可能性もある」と簡単に修正できるのですが)。さらに興味深いのが、校庭から三角地帯への移動時刻です。最終報告書による移動決定時刻の15時33〜34分頃は、越流開始の最終時刻とされた32分の1〜2分後です。32分までに越流し始めた場合、移動決定時刻には校庭に到達していたか、到達寸前のはずです。だから、決定を受けて移動し始め、150mほど進んでようやく越流を目撃した状況と、矛盾しています。

     三角地帯への移動時刻、津波のピーク時刻、越流開始時刻、そして大川小学校の時計停止時刻は、相互に関連が深い出来事です。報告書作成の最終段階に密室で行った手直しで、矛盾が追加されたわけです。

       「三角地帯への移動開始時刻」ですが、第7回の検証委員会で突然「15時33分から34分ごろ、校庭からの三次避難として三角地帯への移動が決定されました」(第7回検証委員会議事録p.10)と出てきて、何を根拠に時刻を絞り込んだのかが説明されていません。当日提出された資料2-2.(当日の避難行動に関する分析について)にも、対応する説明は明示されていません。NHKラジオによる予想津波高さの放送に関係しているようにも思えますが、最終報告書に、「避難開始の時期、及び上述のように『念のための移動』であったと考えられることを考慮すると、移動開始のきっかけは15時32分にラジオから得られた『予想津波高10m以上』の情報であったものと考えられる」(最終報告書p.101)と説明されています。単に「ラジオ放送を聞いてから行動開始までに1〜2分かかったとすると説明がつく」と考えただけなのか、それとも、ラジオ放送と避難開始の関係について何か情報があるのかが、説明されていません。
       移動開始時刻もまた「密室」で議論されたようで、解明できませんでした。とくかく、この検証委員会には、分からないことが多すぎます

     表を眺めると、最終報告書の「三角地帯への移動開始時刻」と「移動と津波越流の関係」は、左の列に記した「私の推定」と良く適合することが分かります。マスコミや遺族に公開して行われる検証委員会は、「儀式」ではありません。検証委員会が何を根拠にこのような手直しを行ったのか、なぜここまでしか訂正しなかったのか、かなわぬ願いでしょうが、是非とも「検証」したいものだと思います。

       手直しには実質的内容がほとんどなく、調整も行われていないので、「委員会の見解は変えないが、遺族の批判をかわすため表現を取り繕った」のかもしれません。本来であれば、経過を遡って「どこに問題があるか」をチェックし、見直す必要があるのですが、そのフィードバックが行われた形跡がありません。

    北上川放水路という地形の特殊性

     第5回検証委員会で、4km以上の内陸で10m以上の浸水深が記録されているのは、大川小学校付近だけと説明されています。この原因として、検証委員会は、北上川の右岸に、大川小学校を終点とする強力な津波の流れが形成されたという「第二の北上川」説を、根拠のないまま了承しました。私は、提出意見の根拠4のように、狭い部分を過ぎると平地が広がるので、粘性の低い海水である津波は、この図も示すように扇型に広がり、威力が弱まると考えます。

       委員会の「第二の北上川」説が正しいと仮定しても、「津波が高さを維持して遡上するためには平地が扇型に広がらねばならない」わけではありません。むしろ、「狭いままの方が、津波が横に広がらずに高さを維持して遡上し、威力を維持」できます。こう考えて三陸海岸の地図を眺めると、高い津波がそのまま奥に進んでも良さそうな候補地が各地に見られます。だから、「第二の北上川」説では、「大川小学校付近だけ」の特殊性を説明できません。

    特殊なのはリアス式海岸への放水路設置

     三陸海岸、いや日本中探しても他にないのが、「北上川放水路」河口周辺の地形です。洪水対策として放水路を建設する例は、他にもあります。しかし、信濃川や淀川などの放水路は本流と類似した海岸に出されており、探しても「津波に弱いとされるリアス式海岸の湾奥に放水路の出口を設置した」例は見つけられませんでした。

     日本各地の地図を眺めると、大きな川の下流部には平野が形成され、リアス式海岸は見られません。北上川でも、石巻市中心部の旧北上川河口周辺には、何万年もかけて川が運んできた土砂で広い平地が形成されています。しかし、人工的に整備された新北上川では、上流からの土砂の堆積で形成された平地が少なく、河口周辺はまるで小河川で、世界的に見ても珍しい地形(ひょっとすると世界唯一)です。

     新北上川の位置に以前あった追波川は、北上川から別れる支流で、長さはわずか16キロ程度でした。流域も狭く、かつては河口から数キロに渡ってヨシ原が広がっていたそうです。その川が、洪水対策のため、東北最大の河川である北上川の本流に改造されたわけです。旧大川村の方が作成されているホームページによると、旧追波川では、流量を増加させるために川を深くする浚渫(しゅんせつ)工事が行われ、川底から掘り出した土で堤防が築かれました。つまり、流量が少なく、そのため堤防が貧弱だった追波川が、大量の水を流し、多少のことでは流水が堤防を越えることのないように改造され、「新北上川」になりました。

     この「放水路工事が津波の挙動にどのような影響を及ぼした」のでしょうか。川に関して行われた工事を海側から見ると、「津波対策として防潮堤を築く」行為の、完全に逆です。津波が遡上できる断面積が広げられ、流量が増加すると同時に、津波が高いまま川を溯るようになります。明治時代のようにほとんど堤防らしいものがない状況の場合、津波は簡単に川から溢れるでしょうが、水量は少なく、速さも陸上から来る津波と余り変わらなかったはずです。放水路工事はこの状況を根底から変え、「大量の津波」が、次の説明のように「速い速度」で遡上する可能性を生み出しました。


    放水路工事と津波の速度
     津波からの避難を考える際に重要なポイントの一つが、「津波の速度」です。私は、波が進む速度の式を中学校で知り、子どもの時から日向灘(太平洋)で見ていた「波が砕ける姿」を説明できる式の威力に驚き、納得したことを覚えています。手許に残しておいた大学時代の物理教科書(昭和38年初版の『物理学概説』)によると、津波の速度もその式で計算できます。
     (v:波速、g:重力加速度、h:水の深さ)

     この式で波速を計算すると、下の表になります。
    水の深さ波の速さ
    1 m3.1 m/秒188 m/分11.3 km/時
    2 m4.4 m/秒266 m/分15.9 km/時
    3 m5.4 m/秒325 m/分19.5 km/時
    4 m6.3 m/秒376 m/分22.5 km/時
    5 m7.0 m/秒420 m/分25.2 km/時
    6 m7.7 m/秒460 m/分27.6 km/時
    7 m8.3 m/秒497 m/分29.8 km/時
    8 m8.9 m/秒531 m/分31.9 km/時
    9 m9.4 m/秒563 m/分33.8 km/時
    10 m9.9 m/秒594 m/分35.6 km/時
    11 m10.4 m/秒623 m/分37.4 km/時
    12 m10.8 m/秒651 m/分39.0 km/時
    13 m11.3 m/秒677 m/分40.6 km/時
    14 m11.7 m/秒703 m/分42.2 km/時

     こんな簡単な式で大丈夫なのだろうかと、根拠2に示した名取川の新聞記事と比較しました。名取川では、海岸から約2キロ、川から800メートルの陸地で秒速3.0メートル(時速10.8キロ)だったのに対し、名取川を逆流する津波は秒速6.5メートル(同23.4キロ)とされています。海岸から2キロは、ほぼ閖上小学校の位置なので、自分で撮影した閖上小学校の写真をじっくり眺めた結果、津波の高さは1m前後で、上の表から推定される津波高さの1m弱と、それほど大きな差はないとわかりました(教室内には津波の高さが1m強あったような形跡もありましたが、岩手県各地や気仙沼で第1波より第2波の方が高かったという情報があり、その影響も考えねばなりません)。
     なお、川と違い、陸上には津波の流れを妨害するものが沢山あるので、上の表は「最大速度であり、陸上では若干遅めになる」と考えておいた方がいいでしょう。


    1階教室の内部。ドアの下側が破れている。教室外側。教室の床は地面とほぼ同じ高さである。

     その後、気象庁に「津波発生と伝播のしくみ」というページがあることに気づきました。津波の伝わる速さを示す図があり、その数値にはこの式が使用されています:深さ10mで「時速36km」という説明は、上の表の「35.6 km/時」を四捨五入したものです。

    放水路建設がなければ「悲劇」もなし − 放水路の影響と避難行動

     こうして、放水路工事の結果、「津波が川から溢れにくくなった。その代わり流量が大幅に増加し、流速も速まるため、万一堤防から溢れた場合に及ぼす影響が格段に大きく」なったわけです。そして、今回の東日本大震災が、「このようにアンバランスな河口部を有する川を巨大津波が襲うとどうなるか」を、初めて現実のものとして示した、と考えられます。

     「放水路工事が津波をどのように強大化したか」を具体的に示すには大規模な作業が必要になるそうで、私には無理です。そこで、到達時刻を手がかりに、「少なくともこの程度の影響はあったはずだ」という推定に取り組みました。最終報告書は、多数の児童・教職員が被災した最大の直接的な要因を、「避難開始に関する意思決定の時期が遅かった」ことと、避難先として「河川堤防に近い三角地帯を選択したこと」としており(最終報告書p.104-105)、津波の到達時刻は重要なポイントです。

      作業に先立ち、北上川の代表的な箇所の横断図を、国土交通省東北地方整備局の北上川に関するホームページから探し出しました。小さくてわかりにくい図でしたが、北上川河口から10キロ程度までは、川底の最も深い部分から堤防までの高さが9〜10mで、川底に起伏があり、川の深い部分の平均では8〜9mになります。だから、津波の高さ(水深)が10m近くに達すると、かなり越流が生じると考えられます。

    津波の高速化 : ピーク到達時刻と津波の高さ

     越流に関係深い津波の「ピーク到達時刻」が分かっているのは、水位計のデータがある福地(15時42分)と飯野川上流(15時55分)だけです。これから、両地点間の平均速度は分速490mとなり、この表と照らし合わせると、「7mクラス」の津波と分かります。越流は起きにくいはずで、国土交通省が作成した津波浸水域の図によると、確かに福地より上流における津波の浸水は一部に止まっています。

     次に、大川小学校のある新北上大橋から福地までを考えましょう。月浜第1水門前で、ピーク到達時刻が検証委員会の推定より2分以上遅かったことを根拠に、新北上大橋付近でも2分強の遅れがあったとして推定したところ、避難経過および大川小学校の時計停止時刻と良く適合しました。そこで、新北上大橋へのピーク到達が検証委員会の推定に対して「2分」遅れていたと考えると、15時34分にピークが到達し、大橋〜福地間の津波平均速度は分速610mで、「10〜11mクラス」の津波になります。この高さがあると堤防を越流し、石巻市職員が撮影したユーチューブ映像にも適合します。遅れが3分の場合は、津波の平均速度は分速700m、高さは「14mクラス」に近づきます。3分遅れていた可能性がないとは言えませんが、ここでは控え目に「2分」とします。

     新北上大橋は、河口(厳密には河口まで1キロの地点)からの距離が4.7キロあります。大橋から福地水位計までの距離4.87キロとほぼ同じなので、河口部での「ピーク到達時刻」の遅れは、最低でも大橋〜福地間と同じく2分拡大し、4分になっています。さらに、この区間でも津波が堤防から越流し、その結果として津波の高さが低下し、流速が遅くなっているはずなので、ピーク時刻の遅れがさらに追加されていると考えられます。大橋〜福地間での追加が2分なので、同じ2分を追加する方法もありますが、何も根拠がないので、控え目に「1分」とします。この結果、河口における遅れは累積で5分となり、河口〜大橋区間の津波平均速度は分速670m、高さは「13mクラス」です。堤防より4m前後高いことは月浜第1水門での目撃情報を記した記事4 と矛盾せず、これ以上の高さがあった可能性もあります。

     以上の結果を表にまとめ、検証委員会の推定と比較して示しました。この値は「控え目の推定結果」で、実際は検証委員会推定との差がさらに広がる可能性があります。

    ピーク到達時刻飯野川上流福 地新北上大橋河 口
    距離(km)14.94(6.37)8.57(4.87)3.7(4.7)-1.0
    検証委員会推定15時55分490m/分15時42分490m/分15時32分490m/分*15時22分
    水位計による測定(位置関係120m/分2分180m/分5分
    控え目の推定15時55分490m/分15時42分610m/分15時34分670m/分15時27分
    *)計算すると470m/分になるが、490m/分で求めた河口の時刻15時22分24秒が丸められていると考えられる。

    避難行動との関係

     以上の推定を、大川小学校の避難行動と関連づけて検討しましょう。ポイントは3つあります。第一は「陸上を遡上してきた津波に巻き込まれることはなかったのか」で、第二は「三角地帯まで安全に移動できたのか」、そして第三が「三角地帯に到着した後に津波に巻き込まれなかったか」です。

    1. 検証委員会は、「とりまとめ」で、大川小学校の児童・教職員は「陸上を遡上して到達した津波に巻き込まれて被災した」と、最終報告書でも「北上川の堤防を越流した津波と、その後に陸上を遡上して来襲した津波の両方に巻き込まれて被災した」としています。だから、まず陸上を遡上した津波の到達時刻をチェックしておく必要があります。第5回検証委員会では、川と同時に河口をスタートした津波が15時37分に4.1キロ先(第5回検証委員会に倣い、「川を経由して新北上大橋まで」より600m近いとして計算しました)の大川小学校に到達するのに必要な遡上速度が計算されました。私が推定した河口通過時刻15時27分は検証委員会の推定より5分遅いので、15分(この時は分速270mになります)ではなく、10分で大川小学校に到達する必要があります。その場合、平均分速が名取川より速い410mになるので、陸上での速度として非現実的です。
       では、どの程度の速さなら妥当なのでしょうか。第5回検証委員会は、名取川西側で分速約220mのデータがあることを根拠に、平均分速270mを妥当としました。この270mで計算すると、海岸から陸を遡上した津波が大川小学校付近に到達するには15分強かかり、15時42分過ぎになります。この時刻には避難開始から8〜9分が経過しているので、生徒達は三角地帯に到達していたはずです。
      •  上記の時刻は、津波の「ピーク」についての計算です。実際にはそれ以前に、もう少し遅い速度で遡上し始めているはずですが、巻き込まれなかったかの推定は微妙で困難です。たとえば仮に、「立ち上がりの津波がそのまま1分の遅れもなく、名取川西側で先端について測定された分速180mで遡上した」とすると、到達に23分近くかかります。河口の通過は検証委員会によるピーク推定6分前(控え目の推定からは11分前)の15時16分なので、大川小学校到達は15時39分と、避難開始より5分以上後になります。

         いずれにせよ、陸上を遡上してきた津波が到達する前に生徒達が命を落としていたことは、遺体の状況が明確に示しています。第7回検証委員会後に行われた「ご遺族との意見交換」で、室崎委員長が、「ご遺体が、この前も伺いましたけれど、砂の中に埋もれていて、その上にいろんながれきがあって、さらに、その長面のほうから流されてきた傷付いたご遺体はその上にあったということは、とても重要なことなので、それはぜひ、その現実と津波の来た方向との整合性を高めないといけないと思っています」(第7回検証委員会議事録p.50)と発言しています。最終報告書における不可解な手直しは、この「ご遺体との整合性」のために行ったものと考えられますが、中途半端で、表面を取り繕っただけです。

    2. 放水路工事がなかった場合、旧追波川を遡上する津波との関係はどうだったでしょうか。私の手許に、根拠2に示した千葉工業大チームによる名取川のデータがあります。名取川は延長55キロの一級河川で、旧追波川の数倍の規模です。今回の津波による河川遡上速度は、海岸から2キロの地点で秒速6.5m、分速で390mでした。海岸から2キロは北上川では河口と新北上大橋のほぼ中間にあたるので、この速度で新北上大橋への津波到達時刻を求めると、15時27分から12分後の15時39分になります。実際に津波が到達したと思われる時刻15時34分より5分も遅いので、名取川並みの遡上速度の場合、避難を開始した全員が三角地帯に到達できたと考えられます
       名取川は、旧追波川に比較してはるかに大規模な河川です。堤防がしっかりしていて水深が深い分だけ遡上速度が速くなるので、ほとんど堤防らしいものがなかった旧追波川の遡上速度が、名取川を上回ることはないでしょう。だから、避難して三角地帯に到着した後、津波が来るまでに一定の余裕が残ったはずです。
    3. 避難先とされた三角地帯も津波に呑み込まれたので、三角地帯に到達した後の行動が問題になります。避難で目ざされたことからわかるように、三角地帯は周囲より高くなっていて、同じ高さで新北上大橋へつながります。他に3本の道路と結ばれていますが、いずれも三角地帯から下り坂で、上に進むには南東に接する崖から山に登るしかありません。

       三角地帯に到着した後の行動には、次の3つの観点があります。

      • 現在、三角地帯の山側にある崖はコンクリートで覆われていて、避難には困難が伴います。しかし、以前の地図を見ると、三角地帯や崖がある現在の姿は、放水路工事と、その後の新北上大橋架設で生まれたと考えられます。だから、工事がなければ現状のような崖もなく、津波が来ても比較的簡単に山に登れたはずです。
      • 放水路は、津波を高速にすると同時に強力にして、川から大規模に越流させました。工事がなければ、越流があっても、放水路工事を無視した第5回検証委員会が考えたような規模で済み、7mの高さがある三角地帯までは津波が来なかった可能性が高いと考えられます。
      • 最後に、現在のような三角地帯と崖があり、そこへ津波が来た場合も考えておきましょう。第4回検証委員会のところで説明した2011年9月8日の河北新報報道のように、この地点で車を誘導していた市職員は、水が迫ってくるのに気づいて裏山へ駆け上り、助かりました。だから、かなりの生徒が助かった可能性があります。


    右から、富士川、三角地帯、そして崖。(出典:Googleストリートビュー)

     以上から、大川小学校で校庭から三角地帯へ行われた避難について、次の2点が言えます。

    1. 避難先を三角地帯とした避難は、川から津波が来ることは予想せず、海岸から陸を遡上してくる津波に対して行われたと考えられます。この陸上遡上津波への避難として、大川小学校の校庭からの避難は時間的に十分間に合うものでした

    2. 今回の河口から新北上大橋までの津波遡上に関する控え目の推定速度(分速670m=秒速11.2m)は、男子陸上競技100mの世界記録より速く、北上川放水路の建設で初めて可能になったものです。だから、北上川放水路の建設がなければ、大川小学校の校庭からの避難は、川を遡上する津波やその越流に対しても時間的に間に合い、三角地帯に無事にたどり着き、次の行動への余裕も残ったと考えられます
     ところで、この三角地帯や崖は、「放水路工事で川幅を広げ、富士川を開削する(②釜谷水路と甚平閘門の項)ために山を削った跡」です。放水路工事がなければ、現在の形の新北上大橋や三角地帯もないので、「三角地帯への避難」自体がなかったはずです。おそらく、どこか適当な地点から山に登っていたでしょう。だから、「放水路工事がなかった場合に、三角地帯まで安全に移動できたか」や、「その後どうなったのか」は、意味のない問いかもしれません。

    仙台地裁判決との関連

     児童23人の遺族からの訴訟に対し、仙台地方裁判所が2016年10月26日に「教員は津波の襲来を予見でき、不適切な場所に児童を避難させた過失がある」と認め、約14億円の賠償を命じたことが報道されています。この「襲来を予見でき」たのが、川、つまり放水路から越流した津波なのか、それとも市の広報車が伝えた「北上川河口の松林を越え」て陸から来た津波とされているのかが、重要なポイントになります。

     二つの津波は、量も質も違いました。判決は、予見可能性の根拠を、津波が北上川河口付近の松林を越えたことを告げた市の広報車としています。だから、裁判所が「予見できた」と判断したのは「陸からの津波」ということになります。「川からの津波」は、この「陸からの津波」より早く到達してるので、広報車を避難の基準にすることには無理があります。しかも、広報車から呼びかけた職員は、川からの越流を「目を疑うような光景」(河北新報)と表現しています。つまり、川からの津波は、避難を呼びかけた職員にとっても想定外の出来事だったわけです。

     このホームページが主張するように「川からの津波」で被災した場合、地裁判決は「陸からの津波への避難呼びかけによって川からの津波を予見できた」としていることとなり、論理に飛躍があります。このように、津波が来た方向は重要なポイントなのですが、事故検証委員会の最終報告書は、2つの津波の区別を曖昧で意味のないものに変えてしまいました

       実は、第7回検証委員会後に行われた「ご遺族との意見交換」の内容からもわかるように、遺族の多くは、事故検証委員会が「陸からの津波」で被災したとしている点に不満を感じていました。最終報告書に納得できない遺族による訴えが仙台地裁で認められた背景に、その事故検証委員会による不十分な検討があったとするなら、皮肉としか言いようがありません。

     私の知る限りで、陸からの津波が今回の悲劇の原因にからんでいるとしているのは、大川小学校事故検証委員会の報告だけです。つまり、大川小学校事故検証委員会が間違った最終報告書をまとめなければ、裁判所が学校側の過失責任を認めて賠償を命じる判決は生まれなかったはずだ、という考えが成り立ちます。


    さらに疑問な点がある仙台高裁判決ですが・・・

     控訴を扱った仙台高等裁判所が、2018年4月27日に地裁よりもさらに厳しい判決を下したので、地元の河北新報と、いくつかの全国紙を読んでみました。大川小学校は、専門家が検討して事前に作成していた津波のハザードマップで、浸水予想区域の外に立地しており、避難所に指定されていました。だから、判決が、被害は予見可能で、ハザードマップの津波浸水予想区域の正確性を独自に検討すべきだったと示している点には、非常な驚きを感じました。判決は、宮城県沖地震の揺れや遡上津波で堤防が沈下・損壊する危険があったので、大川小学校の浸水の危険を予見できたと述べているそうですが、納得できません。東日本大震災は、揺れも津波も宮城県沖地震をはるかに超える規模でしたが、それでも釜谷地区で堤防が沈下や損壊したという報告はありません

     このホームページを読んでいただいた方は、専門家で構成された事故検証委員会が、津波が実際に襲った後の時点においても、川からの津波の危険性を適切に判断できなかったことを理解できたと思います。だから、判決内容を実質化するには「事故検証委員会メンバー以上の知見を有して検討する」ことが不可欠ですが、高裁の裁判官は、誰がどのように検討すると想定しているのでしょうか。石巻市役所のホームページに、大川小学校事故検証委員会設置要綱と、委員名簿や、委員就任時の誓約書があります。小学校の教師や市の教育委員会に、事故検証委員会などのレベルを超える検討能力があるとはとても思えません。もしその能力があるのなら、大川小学校事故検証委員会を設置して検討する必要はなかったはずです。

     遺族の話を聞き、現地を訪問した高裁の裁判官は、その悲惨さに接し、地裁の判決を維持したいと考えたと思われます。しかし、ハザードマップで避難所に指定されており、津波が襲来したという記録が全くない小学校の事件に賠償を求めるのは、論理的に困難です。そこで止むなく、「ハザードマップなどを独自に検討すべきだった」という議論を持ち出したように思われます。私がこう感じたのは、責任の大幅な拡大にもかかわらず、賠償金額はほぼ同額だったからです(河北新報によると、賠償額は一審が約14億2660万円、控訴審が約14億3610万円で、わずか0.7%の追加と、判決が認めた責任の拡大に全く見合っていません!)裁判官は、遺族が和解に応じてくれることを願っていたのではないでしょうか。


    事故の要因や今後の再発防止対策のあり方について

      最後に、事故検証委員会に提出した意見の最後の部分を紹介します。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

     北上川の右岸で大川小学校、左岸で石巻市北上総合支所という甚大な被害が生じたことは、決して偶然ではない。とくに、海岸から約4キロも離れた大川小学校は、放水路建設がなければこれほど強大な津波には襲われなかったと考えられる。今回の津波は、全体的に「過去の記憶が全く役立たなかった」ように見えるが、松島市の宮戸島のように、平安時代の貞観地震による津波の記憶が残っていた場所もある。しかし、明治から昭和にかけての治水工事で人工的に設置された北上川放水路では、過去の記憶が貧弱にならざるを得ず、悲劇の伏線になったと考えられる。大川小学校の悲劇は、水害対策のために人間が自然を改造し、その結果として津波という別の災害に脆い構造を造ってしまった例として、語り継がれるべきだと考える。

     それまでの科学的知識を基礎にして県などが作成した津波予測図(ハザードマップ)を信じて行動してきた結果が今回の痛ましい事故につながったことは、非常に残念である。単なる「教職員による避難誘導の不備」ではなく、より広い視野から検討することで、今後の災害に対処するための有益な教訓を引き出すことができるだろうと考える。


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