東日本大震災 後の 福島市民生活 トップへ戻る

 2011年3月11日、東日本大震災の惨禍をもたらした「東北地方太平洋沖地震」が起きたこの日付を、忘れることはないでしょう。地震が起きた時、私は職場である福島大学の附属図書館で会議中で、とっさに皆でテーブルの下に避難しました。とても強く、そして長く続く地震で、「ようやく弱まったと思ったらまた強くなる」が2回も繰り返しました。揺れが収まり、気づくと、誰もつけていないのに自動的についたテレビが、津波が来るという警報を繰り返し流していました。何もかも、初めての体験でした。

 思い出すと、会議中に会議メンバーの携帯が突然鳴り出し、慌てて「すいません」と止められていたら、続いてもう1人の方の携帯も鳴り出し、「どうしたのだろう」と思いました。携帯を持たない私が、「あれが緊急地震速報だったのかもしれない」と気づいたのは、かなり後になってからのことです。

 海岸から遠く離れている福島市では津波はなく、直接的な被害はそれほど大きなものではありませんでしたが、それでも市民生活にいろいろな影響があり、結構大変でした。これらはマスコミ報道には載りにくいと思うので、写真付きで、地震後における福島市民の生活実態について紹介を試みたいと思います。

  • 家屋の被害
  • 店舗での買い物
  • 水を求めて
  • 命の水、その名はガソリン
  • 道路の損傷
  • その他いろいろ
  • 翌月に思ったこと
  •  私の体験に続き、パート2として、学生の体験をまとめて紹介することにしました。授業で提出された65名のレポートをもとにまとめた内容ですので、こちらもご覧ください。
    福島大学の学生の体験から
    生活共同体/散乱と住宅の個性/食品/ガソリン/情報/放射能/留学生の福島脱出
    (2011.03.17/2012.05.29更新)
     ページ作成の動機:地震が発生した後、いろんな方から心配したメールをいただきました。ドイツにいる日本人の方から、「ドイツメディアは緊張感のあるニュース(原発関連や破壊された町の様子)ばかりで重要な情報が欠如」していて状況がわからないと聞き、日本国内についてもそういう面があることに気づきました。JRが動かないので自転車通勤を試みていた私は、通勤の途中などで、市民生活のいろんな面を目にすることができました。そこで、この際「地震後の福島市民生活」を紹介するページを作ろうと考え、写真撮影に励むこととなりました。

    家屋の被害
     「地震」でまず頭に浮かぶのが、「建物の倒壊」でしょう。幸い、今回の地震で福島市内の建物が倒壊したという例はわずかだそうで、私の行動圏内ではまだ出会っていませんが、市の北部には、半壊以上の住宅もあるそうです。一方、多く見られるのが、屋根瓦の被害と、塀の倒壊です。左の写真は屋根の棟瓦が被害を受けた例です。地震があった当日とその後の3日間は雨や雪が降らなかったのですが、雨漏り対策として、早めに青色シートをかけた住宅も見られました。

     建物と違い、塀が倒れた例は、各地で見られました。1978年宮城県沖地震では、ブロック塀などの下敷きとなって18名の方が亡くなられたことを記憶している方もいらっしゃることと思います。今回の地震ではそのような話しを聞かないので、塀の建設に気をつけるようになったものと思います。高いのにヒビも入っていないブロック塀には、おそらく鉄筋が入れられ、控え壁も設置されているものと思います。

     四段あるブロック塀で、四段目から上が壊れています。被害を受けている塀の比率は、数パーセントという感じです。「被害の有無を分けたポイントが何か」は、正直言ってわかりませんが、他の条件が同じ場合、やはり高い塀ほど危険だと思います。自転車で走る場合、車との距離をとろうと道路端に寄ることになりますが、高い塀のそばに来ると緊張します:いつまで余震が続くんでしょう・・

     住宅脇に建つ土蔵が被害を受けている例が、いくつか目につきました。ほとんどで住宅よりも被害が大きく、ひょっとすると、これは地震波の周期が短かったことを示しているのかもしれません。とても長〜い地震でしたが(報道によると、全体で計六分間)、長周期の揺れはあまり感じられませんでした。地震発生時、私は鉄筋コンクリート建物の半地下室のようなところで会議をしていたので、その影響もあるかもしれません。

     わかりにくいかもしれませんが、左の写真も、石で造られたどっしりした倉の方が、隣に建つ木造住宅より大きい被害を受けています。
     私の家は、ごく普通の木造二階建ての建売住宅で、建物の被害はほとんどありませんでした。就寝時に余震があると、背中から体全体で揺れを受けますが、「住宅が揺れやすい周期に比べ、地震波の周期の方が短い」ような感覚があります。以前は水田だった土地のようですが、このあたりの地盤は悪くないものと信じ、余震を乗り切りたいと思っています。

    高いがヒビもないブロック塀と、シートをかけた住宅
     以上で紹介したのは、あくまでも「外から見てわかる被害」に過ぎません。いろいろなケースがあるようですが、次のような話しを聞いています。
    • 家具が倒れたりして家の中にモノが散乱し、整理するのに数日を要したという話しは、たくさん聞きました。「食器棚から外に落ちたわけではないのに、その中で食器が割れていた」というケースがあることも、複数の方から知りました。
    • 7〜8階建ての建物が主体の福島大学では、階が上になるほど被害が大きくなるようです。私の研究室は2階なので、被害は軽微で、棚の上に横置きにしていたもの等がいくつか落ちていただけでした。他の建物の上階では、本棚が倒れたために内開きのドアが開かなくなり、研究室に入れなくなって困った、という例も出ているそうです。
       大学の附属図書館の被害状況も、1階はそれほどでもありませんが、上層になると書架から多数の本が落ち、散乱していました。私も教員ボランティアとして整理作業に参加しましたが、とくに古い本は傷みがひどく、開館するまでにはかなり期間がかかりそうです。
    • 水道が漏水していて、修理にかなり時間と費用がかかりそうだという話しも、複数聞きました。なお、福島市内は全域が断水しており、これは他市の方から聞いた話しです。当面、使用しない時は、家の外にある元栓を締めているそうですが、福島市民である私は、「元栓を開け締めするのは面倒だが、それでも水がほしい!」と思いました。おそらく、水道が復旧した際には、福島市でも各地で漏水が発見されることでしょう。
     とにかく地震は大変です

    店舗での買い物
     地震では商店もいろいろな被害を受け、閉店している店舗も多く見られます。当日は買物に出ませんでしたが、翌日から、どこへ行っても、そのまま「すっ」と入れた店はありませんでした。入口で待たされるか、閉店していて入れないか、のどちらかです。翌々週に入り、ようやく待たされずに入れる店に出会いました。
     地震の3日後、3月14日午後4時頃のあるホームセンター(店名は消去)の光景です。店内は地震の被害で危険なので、客を入れるわけにはいきません。そこで、外に並んだ客が手渡された紙に購入したいものを書いて店員に渡し、持って来てもらう、というシステムです。すでに売り切れてしまった商品もあり、「ポリタンク、ミネラル・ウォーター、インスタント・ラーメン、灯油、自転車、・・・」はない、と説明を受けました。ポータブルトイレを購入している方もいましたが、確かに賢明な方法です。なお、翌日の昼前にもこの店の前を通ったのですが、その時は営業していませんでした。

     地震の4日後、3月15日昼前の総合食料品店の入口には、店内で買物をしたい人の列ができていました。1回に30人程度ずつ入場で、30分以上は待たされました。整理の方に伺ったところ、午後2時か3時頃には閉店の予定で、その最大の理由は「店員を確保できない」ことにあるそうです。確かに、店内に入ってみると、開いているレジは2〜3割しかなく、しかも地震による損傷で危険な箇所には見張りの店員が立っていました。地震前とは状況が全く異なり、「マンパワー不足」の深刻さがわかります。なぜ「入場制限」を行っているのかと疑問も感じていましたが、制限が必要な舞台裏の事情をようやく理解できた次第です。
     実は、地震後、この店に来たのは3回目です。1回目は午後5時頃、2回目は午後4時頃で、どちらもすでに閉店していて、2回目には「明日は10時から開店します」という張り紙がありました。おかげで、ようやく入れたわけです。
     もちろん、店内の商品も少なめで、品切れの商品がいろいろ出てきていました。
    <左上> 牛乳を買おうと思い探したのですが、見つけられませんでした。このあたりにあったはずですが・・。代わりに豆乳を買って帰りました。
    <右上> それよりすごいのがインスタント食品の棚で、向こうの通路まで、ほとんど何もありません。おそらく、地震の翌日にはこのような状況になっていたものと思います。
    <左下> パン売場も、似たような状況です。パン工場が被災したという話しなので、パンを食べられるようになるには、少し期間が必要かもしれません。
    <左上> 広い店内には、火災時の煙対策として天井にガラスの「垂れ壁」があります。これが、数ヶ所で被害を受けていました。本来は連続してあるはずの垂れ壁ですが、写真では手前側がなくなっています。ガラスの破片が落ちてくる恐れもあるので、人が近づかないように赤いコーンが置かれています。このような状況も、入場制限の理由になっているものと思います。

     左の写真は、春分の日(3月21日)のある大型店の店内です。店の前に並ばずに入店できたのは、地震後初めての経験でした。入場制限がなかったのは、この店は地震の被害をほとんど受けていないことと、ガソリン切れで客が減ってきていることが影響しているものと思います。店舗周辺にある駐車場は、半分程度は空いていました。
     写真で注目してほしいのが、天井の蛍光灯です:食品売場(写真:上)は蛍光灯3列に対して1列、それ以外(写真:下)では3列に対して2列の割合で消灯されていました。食品売場はともかく、一般の売場は「暗いが、販売していないのかな」と思ったほどです。しかし、売場に行ってみると、「暗くて商品を選びにくい」という状況ではありませんでした。福島県は「被災県」として計画停電の対象から外されていますが、企業はそれなりに努力していることを知り、嬉しく思いました。東京電力による計画停電が行われている関東地方は、どのような状況になっているのでしょうか。

     ところで、よく「電気、水、水道」がライフラインと言われています。私は、大型店進出による既存商店街の衰退問題を扱う中で、「商店、とくに食料品店も立派なライフラインだ」と思っていましたが、今回の経験を通じ、ますますそう考えるようになりました。ガソリンを使わなくても買物に行ける店舗があることが望ましいことは、高齢者をはじめとする交通弱者に限らないことで、可能な限り確保すべきポイントだと思います。

    水を求めて
     地震の当日、私の家では普通に水が出ていました。だから、翌朝「水が出ない」と知った時は、あわてました。数本のペットボトルがあるだけで、全く水を溜めていなかったからです。福島市では、地震で市内全域が断水となっていました。
     「給水所」が市役所の支所に置かれているというテレビの情報を頼りに、地震翌日の昼過ぎ、自宅にある大きめの容器を手に、車で出かけました。すでに長い列ができていて、水を得るまでに1時間以上かかりました。給水量は1人6リットルまでで、大きいタンクに半分以下の量しか入れてもらえない人や、たくさん持って来た容器のほとんどを空で持ち帰る人もいました:「1人6リットル」という情報は、報道されていませんでした。分量は目分量なので、1リットル前後の誤差はある模様です。
     おそらく数日すれば列は短くなるだろうと思っていましたが、この予測は的中しました。3日目に再び支所へ行ってみると、10人程度しかいず、待ち時間は数分になっていました。3回目に行ったのは朝の7時頃で、待っている人はいませんでした。
     写真は、地震から6日目、17日午後5時頃の南福島駅近くの給水所の様子です。私が主に利用していた給水所と比べ、広さは少し狭いですが、テントが設置されています。

     上の写真のホワイトボードには、「水道の復旧日時は未定です。給水を受けた水は飲み水としてのみ利用し、節水を心がけてください」と書かれています。しかし、生活には雑用水も重要で、量的に最も問題となるのがトイレ洗浄水です、ポータブルトイレを購入する手もあるようですが。そこで思いついたのが、「川」です。幸い、私の家から100メートルほどのところに、阿武隈川の支流「荒川」が流れています。そこで、市役所支所で飲料水を入手した後、荒川へ向かいました。ちょうど若い方が水汲みに来ていて、その方の援助でトイレ水を確保できました。
     1〜2日するとその水が切れてきたので、水汲みに適した場所がないか、荒川の周囲を見て回りました。小川が荒川に流入するところに水門があり、脇に階段があるのを発見したので、そこで水汲みをすることとしました。他にも、自転車や徒歩、あるいは車で、何人もの人が水汲みにやって来ました。
     右上の写真に写っている人は、水門の下流側で水汲みをしています。後で発見したのですが、上流側と下流側では水のきれいさが大きく違います。ほとんどの人が下流側で水汲みをするのは、上流側は堤防工事のために入りにくく、護岸の凹凸も少なくて滑りやすいからです。上流側の水は洗濯もできそうな感じで、「生活排水を中心とした都市下水が河川を汚染している」ことがわかる、素晴らしい教材だと思いました。

     水がないと、入浴も、そして洗濯もできません。福島市のホームページによると、福島駅から出ている飯坂線電車の終点である飯坂温泉で市の共同浴場が無料開放されている(つまり、ガソリンを使わずに入浴できる)という話しなので、「このまま風呂に入れなければ行ってみようかな、でも混雑しているだろうな」、などと考えていました。幸い、私の家では、地震から1週間後の18日夜に、再び水が出るようになりました:いつもの習慣でつい蛇口をひねったら水が出てきたので、びっくりしました。
     さて、福島市は福島第一原発から60キロ程度離れているはずですが、風の影響か、データが公表された県内主要地点のなかで、最も放射能の測定値が高い日が続きました。どうも、雪が降る中、自転車で帰宅した頃から、急に値が高くなったようでした。そこで、体についているであろう放射能を洗い流そうと、早速お風呂に入りました:ちょうど1週間ぶりの入浴でした。出たあとで浴槽を見ると、かなり砂が混じった水だったとわかりましたが、そんなことは問題ではありません。
     次は、通勤時に外気に直接あたっていた衣類の洗濯です。放射能が他の衣類に移ると困るので、下着等は入れずに洗いました。洗剤はなくてもいいだろうと思いましたが、気持ちだけ入れ、洗濯機をまわした次第です。

    命の水、その名はガソリン
     車を運転しない私にとって、地震の影響でガソリンを入手しにくくなる事態は、完全に想定外でした。地震翌日は、まだ1/3程度のスタンドが開いていましたが、給油を求める車が数珠つなぎに並んでいました。そして、その翌日は、開いているスタンドを見つけることはできませんでした。後で聞いたところでは、地震後に開いていたスタンドも、給油量を、10リットルまでとか、2,000円までと、制限していたそうです:給油の列に並ぶためのガソリン消費を考えると、実質給油量はいくらになるのでしょうか。
     この写真のスタンドは、屋根に「震災時給油可能SS」と記されていますが、黄色いコーンに「完売」と書かれています。表現を「震災にも耐えるタンク設置済み」などと修正すべきかもしれません。

     震災から5日が経過した16日の朝7時頃、右の写真のように、閉まっているガソリンスタンドの前に車がズラッと並んでいました。寒いので、暖房のためにエンジンをつけて待っている車もあるはずで、「本当にこのガソリンスタンドが営業し、10リットル購入できたとして、実質的なガソリン増加量はいくらになるのだろう」と考えてしまいました。
     その後どうなったのかが気になり、数日後の夕方、このスタンドに寄ってみたところ、「次の販売日は未定です」と書かれた貼り紙がありました。もちろん、車は一台も並んでいません。おそらく、この写真に写っている車は、ガソリンを入手できたものと思います:タンクの中味が何リットル増えたのかはわかりませんが。
     伝え聞いた話しによると、どこからともなく「あのスタンドが開きそうだ」という噂が流れてきて車の列ができたり、車が並んだ列があるのでとにかく最後尾につけてみたり、実際に給油しているスタンドがあるのに気づいて並び、同時に知人に携帯で連絡したりと、いろいろなケースがあるようです。ガソリン獲得のための「ゲリラ戦」、という表現がピッタリしていると思います。
     「店舗での買い物」で、店舗がかかえている大きな問題が「店員を確保できない」ことだと説明しましたが、多分、店員不足の最大の原因は「ガソリン不足による通勤困難」だと思います。車を利用している大学の同僚に聞いても、「ガソリンがまだたっぷりある」という人は例外的で、バスを利用している例もあります(バスで福島大学に来るのはかなり不便です)。地元ラジオ局の放送を聞いていると、あるチェーン店の担当者が、電話インタビューで「商品はあるが、店舗まで輸送するガソリンがないので、商品供給が滞っている」と話していました。福島市は、「ガソリンなしでは何もできない都市」になってしまったのでしょうか。
     自転車での通勤にがんばっている私としては認めたくありませんが、現在の福島市では、「命の水、その名はガソリン」なのかもしれません。

     地震から2週間が経過し、自転車での通勤にも慣れてきた3月24日(木曜)の朝、昨日まで何もなかった道路に、突然、車の長い列が出現していました(左の写真は翌25日のものです)。「このあたりにガソリンスタンドがあるのだろうか」と考えながら、職場への道を急ぎました。
     地図を調べてみたところ、東方向に1キロ進むと、幹線道路の角にガソリンスタンドがあることがわかりました。左上の写真で、道路のずっと先に新幹線の高架が通っているのがわかるでしょうか、そこまでが約700mあり、さらにその約300m先に、目的地点であるガソリンスタンドがあります。
     そこで、帰宅する途中に、そのスタンドに寄ってみました。右下の写真のように、「本日は終了しました」という紙が貼られ、ロープを張って入れないようになっていました。そして、その奥にはタンクローリーが見えます:ひょっとすると、明日も販売があるかもしれません。
     そして、翌25日の朝7時半頃に撮影したのが、左上の写真2枚です。昨日と同じく、東から西へと車が並んでいます。最後尾がどこにあるのかわかりませんが、すでにこの時点で1.5キロは並んでいるでしょう:で、ガソリンスタンドの営業は何時に始まるのでしょうか。少なくともあと1時間は列が動かないはずで、ガソリンを消費しないよう、エンジンを切っている車が多いものと思います。ドライバーの方がどうしているのかと思って車の中を眺めたところ、姿が見えない車もありました:よく見たところ、シートを倒して休んでいることがわかりました。朝は寒いので、風邪をひかないようにしてくださいね。他市では、暖を採ろうとストーブ等を持ち込み、一酸化炭素中毒で亡くなった事故も報道されています。
     数日前には、「4時間かけて20リットル買えた」という話しも聞きました。先週は、ガソリン獲得の「ゲリラ戦」だと書きましたが、今は「忍耐の闘い」という表現の方が適切かも知れません。長い車の列を見ると、「社会的な無駄をしているのではないか」という感じもします。ガソリンが「命の水」である社会、それは脆弱な社会かもしれないと、不安を感じるこの頃です。

    道路の損傷
     東北地方の大動脈は、国道4号線です。その重要な幹線道路が、土砂崩れのため、福島市の南部で一部通行止めになってしまいました。左の写真のように、その上にある団地も状況が危険で、避難指示が発令されたそうです。福島市にとって幸いだったのは、崩れたのは80年代に開通したバイパスで、そばを旧国道が通っていたことです。左の写真は、旧国道から、バイパスとその上の住宅地を眺めたものです。
     右の写真で、正面右が通行できなくなったバイパス、左に見えるのが旧国道です。旧国道で信号待ち中の黄色いトラックは、この交差点で右折してバイパスに入り、左手前方向(東京方面)へと向かいきました。なお、福島市ホームページによると、この写真を撮影した直後の18日午後6時に、不通区間が片側1車線で暫定供用されたそうです。旧国道沿線に住む方は、騒音が減ってほっとしたことでしょう。

     自転車で走っていると、左のように道路が陥没している箇所が各地にあることがわかります。同じところを通っていると、余震の影響か、陥没の程度が次第に大きくなり、また箇所数も増加しているように感じられます。
     国土幹線である国道4号線では直ちに復旧工事が開始されましたが、左のような生活道路の損傷は、該当箇所が市内各地に非常に多く点在しているので、いつ復旧できるのだろうかと、心配しています。

     右側上の写真は、地震の12日後にあたる3月23日朝のものです。数日前にここを通った時は赤いコーンが置かれていた陥没箇所ですが、アスファルトが外され、応急的に砂利が入れられていました。これほど早く補修が行われると予想していなかったので、驚きました。この道路は準幹線道路と位置づけられているのかもしれませんが、福島市の道路補修システムは結構優れている、と思った次第です。
     その後、4月7日の深夜、M7.4と本震後最大の余震がありました。翌日の8日は再びJRが止まったので、自転車通勤となり、数日ぶりにこの道路を通りました。
     その時に撮影したのが、右側下の写真です。すでにアスファルトで補修が行われていました。他の場所には、まだ赤いコーンのままのところもありますが、そちらもいずれ同じように補修されるものと思います。

    その他いろいろ

    翌月に思ったこと
     以上、地震発生時から、その後の福島市における市民生活の状況を紹介してきました。
     そうこうしているうちに地震から3週間が経過し、4月に入りました。福島市のドライバーを悩ましていた厳しいガソリン不足ですが、通勤途中に長い列に出会った翌週月曜の3月28日に、気分転換のため別ルートを通ってみたところ、そこにも右のように長い列ができていました。開店前のスタンドから写真奥の陸橋までが約800mで、列はその先へと伸びています。しかし、翌29日に再び以前のルートを通ったところ、先週後半に見られた長い列は消えていました。
     こうして、福島でも、ようやく郵便物をポストに投函できるようになりました。JRも部分的に動き始め、自転車通勤にも終わりが見えてきました。このように正常化が進んできていますが、今回の地震による影響は広範に及んでおり、今後もいろんな面で影響が長引くだろうと思っています。そこで、4月1日を基準として、現段階で気になっている点を4つ紹介します。


    福島大学の 学生の体験から

     計7名の教員で担当している「社会と人間」という科目では、学期末にレポートを課しています。100名を超える学生が、各担当教員が提出する課題から2つを選択して提出する、という方法です。受講しているのは2年生で、福島大学で1年間学び、後期試験が終わった後の休暇中に発生した地震で、いろいろなことを経験しているはずです。その体験を振りかえることは、有意義だと考えました。そこで、2011年度の後期には、例年出しているテーマに加え、私が作成したこのホームページを説明した上で、「東日本大震災と私の日常生活」をテーマを追加しました。

     その結果、私のところに例年の数倍の学生からレポートが提出されました。その大半にあたる65名のレポートが、東日本大震災の影響に関するものでした。読んでみると、私が知らなかったことが書かれていたり、今後の防災対策に参考になるかも知れない点があったりしたので、「採点して終わり」にするわけにはいかないと感じました。かといって、レポートは一種の「答案」なので、公表するわけにはいきません。そこで、中間的な方法として、レポートを読んで印象に残った点を、私がまとめた上で紹介することとします。

     一応、私が行った区分を基本にして説明しようと思いましたが、その枠に入りきらない点があり、そこに重要な観点があると感じられました。そこで、学生の視点も考えながらまとめております。

    自然に生まれた学生の「生活共同体」
    家財道具の散乱状況を決めるのは住宅の個性か
    主な食品はすでに地震当日に売り切れ
    スタンドに並んでもガソリンを買えないことがあった
    情報の重要性とその入手・発信の困難性
    放射能の影響に対する不安
    中国人留学生の福島脱出
    そして最後に
     学生レポートを基礎にまとめた内容の最後に、二つのことを紹介したいと思います。
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