「ドイツと日本のまちづくり」について

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1998年の「福島大学住居学研究室」ページ

著者 … 阿部 成治

ページの歴史
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     私は1948年の始めに愛媛県の山奥で生まれたそうですが、生誕地で生活した記憶は残ってないので、「出身地は」と聞かれれば、ためらわずに「宮崎市」と答えます。南国宮崎の都心デパートまで徒歩で数分という便利なところで、店舗併用住宅で親の仕事を眺めながら、私は育ちました。裏通りではありましたが、都心近くなので敷地は30〜40坪程度と狭く、花が咲く庭がある家を羨ましく思ったものです(その頃は庭を管理することの大変さを知りませんでした)。私は団塊の世代で、当時はまわりに同年代の子供がたくさんいて、地区には活気があふれていました。
     しかし、最近はご多分に洩れず居住者がまばらになっています。私の育った家もかなり前に取り壊され、跡地にはデパートの立体駐車場が建っています。周辺を歩いてみても、かつての面影を見つけるのは困難です。

     育った宮崎から出て、京都大学で建築を学んだ後、私は出身地に近い都城市にある都城工業高等専門学校の建築学科に勤めることになりました。学生と都城市民会館を調べ、まとめたこともあります(都城市民会館 傷だらけの市民会館 pdf 1/2都城市民会館 傷だらけの市民会館 同 pdf 2/2)。生活面では、当初は学校そばの公務員住宅に住んでいましたが、後に分譲住宅を購入しました。もともと学校が郊外にあったこともあり、都城では不便な郊外生活をおくっていました。
     勤め始めて間もない頃、ドイツのシュツットガルトに1年間留学させていただいき、ドイツのまちづくりを学べたことは、その後の研究生活に大きい影響を与えています。シュツットガルト大学で学ぶ直前にはフライブルクゲーテでドイツ語を勉強しました。フライブルクは魅力的な中規模大学都市で、「こんな町に住めたらいいだろうな」と感じていましたが、まさか環境都市としてこれほど有名になるとは思いませんでした。

     その後、昭和の終わりに福島大学教育学部の家庭科教室に移りました。大学は郊外ですが、JR金谷川駅のすぐそばです。住まいは町の中なので、鉄道で通勤し、生活が便利になりました。研究面では、都城と比較して成田空港が近く、大学図書館にはドイツ関係の書籍もかなりあったため、結果的にドイツまちづくりの研究に力を入れることになりました。なお、福島大学では2004年10月に理工系分野の設置に伴って大学が改組され、私は、人間発達文化学類に所属することになりました。
     こうして、2013年3月末に福島大学で定年退職を迎えました。その後も「特任教授」として再雇用され、同じような生活を続けておりましたが、特任教授の契約も2018年3月末で終了しました。現在は、無職です。ただ、毎日のようにインターネットでドイツの状況を調べている点だけは、大学に勤めていた頃のままです。

(2017.04.04/2018.08.16更新)

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